ヒゲとナプキン

連載小説『ヒゲとナプキン』 #最終話

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 昼過ぎには陣痛が始まったものの、一向にそのペースは速まることがなかった。イツキは長期戦になることを覚悟し、翌朝は病院からそのまま出社できるよう、ひとまず荷物を取りに自宅へ帰った。

 夜九時過ぎ。病院へと戻ると、そこには前橋からシゲルとフミエが、湯河原からは宗弘が駆けつけていた。決して広いとは言えない陣痛室はすでにすし詰め状態で、サトカも含めた五人でおしゃべりに花を咲かせてい

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連載小説『ヒゲとナプキン』 #36

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 学生たちの春休みと年度末決算が重なる三月末は、旅行業界きっての繁忙期。ひっきりなしにかかってくる電話に応対し、各所から届くメールに返信していると、イツキのデスクの上に置いてあったスマホが震えた。

「陣痛が始まったみたい。そろそろ病院に向かうね」

 サトカからのメッセージに、イツキはスマホを握りしめたまま、思わず立ち上がった。職場の同僚たちの視線が一斉に注がれたのに気づくと

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連載小説『ヒゲとナプキン』 #34

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 黒いロングコートに身を包んだサトカが、鳥居の向こうから手を振りながら歩いてきた。イツキは境内に設置された長椅子に座ったまま、軽く手を上げた。冬晴れの空は絵の具で塗ったように青く、吐く息の白さとのコントラストは新年の清々しさを感じさせた。

「ごめんね、お待たせ」

「あれ、荷物は?」

「ああ、いったん家に置いてきた」

「なんだ、言ってくれれば手伝ったのに」

 湯河原にあ

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連載小説『ヒゲとナプキン』 #35

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「あっ、そうだ」

 境内の長椅子でしばらく手を取り合っていた二人だったが、サトカは何かを思い出したように、コートの内ポケットに手を突っ込んだ。

「イツキのお姉さんの名前って、コズエだっけ?」

「ああ、そうだよ」

「なんかお姉さんからイツキ宛てに封書が届いてた」

 そういうと、サトカは懐から一封の白い封筒を取り出した。

「え、年賀状でもなく、封書?」

「うん、家帰っ

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連載小説『ヒゲとナプキン』 #32

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 ふと目が覚めた。暗闇に包まれた部屋の中で、イツキはスマホを探して毛布から手を伸ばした。指先に、小さな端末が触れる。それを手元にたぐり寄せると、画面から強烈な光が発せられた。あまりの眩しさに思わず目をつぶったイツキは、そこからゆっくりと瞼を持ち上げて視界を取り戻していった。

「もう十二時か……」

 イツキはひとりごちると、無造作に放り出したスマホが照らし出す天井をぼんやりと

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連載小説『ヒゲとナプキン』 #33

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 ひっそりと静まり返った新宿二丁目の街を、イツキはコートの襟を立てて歩いていた。ほぼすべてのネオンが消えた雑居ビルの階段を上がると、ジンの店だけがドアに正月のしめ飾りを掲げていた。

 多くのLGBT当事者が集う二丁目では、ほとんどの店が大晦日から元旦にかけてカウントダウン営業を行い、そこから正月休みへと突入する。だが、一年のうちで最も「家族」を意識させる正月というイベントは、

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連載小説『ヒゲとナプキン』 #31

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 イツキに「伝えなければいけないことがある」と言ったきり、父のシゲルは黙り込んでしまった。口を開いてはみるものの、何かを言いかけては言葉が出ず、また口をつぐむという繰り返しだった。

「なんだよ」

 しびれを切らしたイツキが、腕組みをしながら苛立ちをぶつける。

「うん、ああ……」

 それでもシゲルは切り出すことができず、ため息をついては、また黙り込んだ。

「母さん、どう

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連載小説『ヒゲとナプキン』 #30

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 夕方六時を過ぎたばかりだったが、あたりはずいぶん暗くなっていた。等間隔に並ぶ街灯が、道幅の狭いアスファルトを照らす。身を切るような冷たい風に吹かれながら歩くうち、イツキはふたたび実家の前にたどり着いた。もう一度「ただいま」を口にする気まずさを、インターフォン越しに聞こえる母のあたたかな「おかえり」が包み込んでくれた。

 リビングに行くと、すでにダイニングテーブルにはおせち料

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連載小説『ヒゲとナプキン』 #29

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 父の謝罪にたまらず家を飛び出したイツキに、群馬特有の「赤城おろし」が強く吹きつけた。頬を切り裂くような冷たい風が心の隙間からも体内に流れ込んでくるようで、イツキはひとつ身震いするとコートの襟を立てた。つい数時間前まで真上にあった太陽はずいぶんと傾いていて、街全体をオレンジ色に染め始めていた。

 席を立つ口実として「ちょっと電話してくる」と言ったものの、特に誰かに電話をする用

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連載小説『ヒゲとナプキン』 #28

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 八年ぶりに対峙した父から、藪から棒に「すまなかった」と頭を下げられ、イツキは表情を強張らせた。顔を上げたシゲルの表情はいつになく青ざめていて、細身のフレームの眼鏡は少しずりだけ下がっている。

(何がだよ……)

 イツキは苛立ちを隠せずに、憮然とした表情で腕組みをした。

「私は……無知だったんだ」

 シゲルは目を閉じたまま、かすかに唇を震わせてそう答えた。

 父の言葉

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