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「水星の魔女」超分析! エアリアル(他人の主張)よりキャリバーン(自分の意志)で戦え!

 今回は、令和初のガンダム作品、機動戦士ガンダム「水星の魔女」について考えていきたい。今作は、ガンダムシリーズ初の女性主人公や、学園物という設定から注目を集め、SNS等でも賛否両論巻き起こしながら、かなりの盛り上がりを見せていた。そんな「水星の魔女」はガンダムシリーズとして成功したのだろうか? それでは初めていこう。


○「水星の魔女」はガンダムシリーズとして成功か失敗か?

 まあ、最初に結論から言ってしまうのだが、色々と意見はあると思うが、個人的には普通に面白かった。作品としての完成度は高いし、そもそもの制作サイドの目的を考えれば、十分成功と言えるだろう。

 ではその制作側の目的とは何なのか? それは、ガンダムを好きな人から、今までガンダムを見たことがない世代の人まで、幅広い層に見て貰える新しいガンダム作品を目指していたらしいのだ。実際今作では、スレッタやミオリネというW女主人公であったり、学園物の設定、そして、株式会社ガンダムという、ガンダムで起業というアプローチなど、今までにない新しい要素に挑戦している。さらに、地球側と宇宙側の格差や差別の問題であったり、地球に代理戦争させ、兵器を供給し利益を得る、戦争シェアリングの仕組みなど、従来のガンダムシリーズでも扱ってきたテーマも取り入れているのだ。このように、ガンダムの新旧の要素を上手く取り入れ、今までガンダムに触れてこなかった世代に向けた作品として十分面白い物になっていると思うのだ。

 勿論全てが、成功している訳ではないし、宇宙世紀シリーズなどと比べると、クセの強さや、インパクトに欠けるという意見もあるだろう。今作は、全体的なレベルも高いのだが、良くも悪くも綺麗にまとまりすぎてる感じもした。

○政治戦とモビルスーツバトル! W女性主人公にした訳

 そして、物語の方では、単純な味方勢力VS敵勢力というような形ではなく、ベネリットグループという同じグループの中で、思惑が違う各キャラ達が小瀬りあっている。そこに、外から宇宙議会連合や、地球のテロ組織も絡んでくるので、話がだんだん複雑になり、集中して観ないと何がおきているのか割りとよくわからなくなる笑。

  こんな具合で、各キャラ達が自分の目的のために、政治戦みたいな事をしているのだが、そちらの政治戦の話は、主にミオリネの役割になっており、スレッタはほぼ蚊帳の外なのだ。では、スレッタの役割は何かというと、前半の学園での決闘や、後半のキャリバーンでの出撃など、主にモビルスーツバトルの方がスレッタの役目だ。要はW主人公にした目的として、ベネリットグループ内での政治戦はミオリネに担当させ、モビルスーツバトルの方はスレッタにやらせる事で、2つの視点で物語を進めたかったのであろう。そうする事で、今までのガンダムシリーズとは、新しい語り口が観れるという訳だ。

○安全な箱庭としての学園から突発的な暴力に晒される現実社会へ

  他に注目すべきは、「学園」という設定についてだ。ガンダムシリーズにおいて、まず主人公をガンダムに乗せて戦わせるための理由を作らなければならない。今までのガンダムでは、戦争という状況を使う事が多かったが、今作では、学園のルールである決闘というシステムが使われている。
 この決闘システムは、一見、戦って勝った方に決定権があるという平等なルールに思えるが、結局は、御三家のような、そもそも人脈も資金もある強い立場にいる奴が勝つという、現実社会の構造がそのまま学園の中に持ち込まれている訳なのだ(東大生の親は高年収であるから子供に高い水準の教育を受けさせられるとか、そういった話と同じである笑)

 このように、部分的に現実の縮図でもあるのだが、とはいえ、あくまで学園の中というのは、現実とは違うある種の安全な箱庭であって、決闘も命の危険がない、レギュレーションに保護された安全な物なのだ。
 今作のキャラ達の親子関係がすごく強調されるのもそういう事で、あくまでミオリネやスレッタ達や、あの学園の中にいるキャラ達は、まだ力のない子供だという事が描かれている。ミオリネもスレッタも、決闘したり、株式会社ガンダムを作って社会参加しようとするのだが、あくまで、親の手のひらの上であり、親の重力から逃れられていないのだ。
 
 ただ、1期の終盤で、地球のテロリストの襲撃によって初めて、学園という箱庭の外から、外部の現実社会が侵入してくる。現実というのは、学園のような安全な決闘ではなく、急に自分も死ぬかもしれないし、逆に相手を殺してしまうかもしれないというような、突発的な暴力に晒される時があるのだという事だ。 このテロリストの介入によって、学園内の決闘が実は茶番にすぎず、ここからが、現実の戦いが始まるという所で2期に入る。

  2期に入ってからは、ミオリネも父の助けなしで、自分の力で戦っていくしかなくなるし、スレッタも、プロスペラとエリクトに捨てられ、今までは、プロスペラのいう通りに生きていたが、自分の意志を持たざるおえなくなる。そして、今までは、安全な箱庭だった学園内も、テロにより安全な場所ではなくなり、物語の舞台が学園(箱庭)を超えて、外部の現実社会に移行するのだ。

  現実社会に出てからは、ミオリネもスレッタも、失敗も挫折もするのだが、だからこそ、2人は成長したり、別の自分の居場所を見つけることが出来る。スレッタも一度プロスペラに捨てられる事で、母の事を客観的に見る事が出来たから、スレッタ自身の主張を持つことが出来た。

 ○水星の魔女における「ガンダム」とは兵器と医療技術の中立にあるテクノロジー

  そして、特によかったと思うのは、今作では、他のガンダムシリーズにはない、水星の魔女ならではのガンダムの再解釈を生み出したと思っている。
 例えば、ファーストガンダムでは、ガンダムとは、アムロという少年が、戦争という形で社会参加するための拡張身体だった。
 そして水星の魔女におけるガンダムは、起業という形で社会参加するための、テクノロジーとして描かれていたと思う。
 作中でのガンドフォーマットの技術は、兵器としての殺戮にも、医療技術として人を助けるためにも使う事が出来た。つまり、ガンドフォーマットという、兵器としても、医療技術としても、使う側次第でどちらにも傾きうる中立としてのテクノロジー、これが、水星の魔女におけるガンダムの解釈なのである。
 これは、ガンダムの解釈として現代的だし、起業という形での社会へのコミットは、今までのガンダムにはなかった新しい試みだったと思う。

○エアリアル(他人の主張)より、キャリバーン(自分の意志)で戦え!

 他によかった点として、作中で、なぜスレッタだけはガンダムに乗っても平気なのか?という謎があった。これは設定的な理由としては、エアリアルの中にいるエリクトが、データストームからスレッタを守ってくれていたからなのだが、メタ的な解釈としては、スレッタが自分の意志を持っていなかったからだと考える事が出来る。最初のスレッタは、自分の意志や主張がなく、全部プロスペラにいわれた通りに動いている。言い換えれば、プロスペラや、エリクトに守られていて、自分で戦っていないから強いのだ。スレッタはプロスペラのいう事が正しいかどうか疑問を持たないし、迷いがないのだ。つまり、自分の意志や考えを出さないので傷ついたり、苦しむ事がない。だからこそ、ガンダムに乗ってもスレッタは平気なのである。
  しかし、スレッタがエアリアルを失い、キャリバーンで戦うようになってからは、もうエリクトの保護がないからデータストームに苦しみながら戦う。
 これはスレッタが、母から一人立ちして、初めて自分の意志や主張で戦うようになった事を意味する。要は、自分の意志や意見を持って他人と関わる事や戦う事って苦しい事であり、傷つくことであるという訳だ。
  エアリアルに乗って、自分で考えず、母のいう通りに流されて他人と関わるのは何の苦しむもない。なぜなら、そこには自分がいないから。しかし、キャリバーンに乗って戦う、つまり、自分の意志や主張を持って傷つきながら他人と向き合う事は、苦しい事である。しかし、現実社会を生きるためには、そうやって傷つきながらも他人と向き合っていく事が必要なのだ。

 今回はこれで以上になります。
こんな長文を読んで頂きありがとうございます🙇 ではまた🙋

 
 
 

 


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