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新生活9と『一度きりの大泉の話』

 外出もお酒の量もクリアしました、あとは寝るだけ、えらすぎる。

 今日は記録は諦めて寝ようかなと思っていたのですが、読んだ本の感想を吐き出したい気持ちになってパソコンを立ちあげ、こうして書いています。心がうまくバランスがとれない……。

 読んだ本とは萩尾望都『一度きりの大泉の話』です。以下ネタバレを含みます。

 インタビュー形式で萩尾先生が答え文字起こしされたものに、萩尾先生自らが加筆修正する形だったせいか、本は分厚く、ちょこちょこ文章としては整合のとれていないというか、話題が飛んだり読みづらい部分があるのですが、それでも「なるべく冷静に話そう」とする萩尾先生の感情が滲み出ていて、それだけで悲鳴をあげそうになりました。「はじめに」だけで心がねじれた。

 そしてわたしの手元には竹宮惠子『少年の名はジルベール』があるわけで、そしてわたしはおもしろおかしくその本を読みました。いまの萩尾先生との関係はどうなっているのだろうと思いました。たとえばわたしが萩尾先生にインタビューできる立場にあったのなら、あるいは大泉の話を映像化にする企画に関わっていたのならば、萩尾先生が「してほしくない」「仕事に支障が出ている」「これきりにしてほしい」と絞り出すように言葉を紡いで出版してくださった(してくださった、としか言いようがない)この本にある何某たちと同じように、やはり大泉の話を萩尾先生に聞いたに違いないのです。打診したに違いないのです。大袈裟で自意識過剰かもしれないけれど、わたしは萩尾先生を傷つける諸々の一端を確実に形成していました。それで勝手に罪悪感のようなものを抱いているのかもしれない。

 たぶん全部事実なのだと思います。萩尾先生の言葉も竹宮先生の言葉も、どちらもあったことで、どちらも間違ってはいないけれど欠けているのでしょう。いやこれどっちの立場にもなったことある、ああーーーーーークルシイーーーーーーしかも業界が同じだから名前や作品名や評判は勝手に入ってくる、こんな地獄の連鎖があるのだろうか……わたしが苦しんでいるのはわたしの勝手ですが……。

 半世紀経って竹宮先生もやっと「あれは嫉妬だった」と言える状態になったのかもしれないし、勝手ながらあわよくばまたつながりを持とうとしたのかもしれない。なぜなら半世紀経っているので。
 けれどたのしくって仕方なくてこのまま違う形でも同じように続けばいいのになと思っていた二年間を、唐突に一方的に切り落とされて、外野からは勝手に言われて、傷は癒えるどころかいまだ生傷のままにあるものは、半世紀経とうがやはり生傷であり、無理なものは無理なんですよね。しんどい。
 でもものすごく悩んで葛藤して嫉妬してあのときはああするしかなかったと思いながら、傷つけた相手は「原因がわからない」「まさか」と、結局自分だけが空回りしている状態も、時間が経たなければ認めづらいし自分ではなかったことにしたくなったりしますよね。しんどい。

 結果として「あのときはそう思っていなかったけれど、実は私の構想にかぶせてきたのではないか」と仄めかす部分が二ヶ所あって、うう、そう思われるのも、そう思ってしまうのもつらい。

 感謝していて仲良しだと思っていた相手のことを「かの先生」と呼んでいるのもつらい、つらいというかかなしい。それはそう呼ばないでよということではなく、そう呼ぶので精一杯だというその、なんだ、もうどっちに感情移入しているのかわたしはなんなのか。一読者。そうです。ぐちゃぐちゃです。

 萩尾先生が長く語った、いわばこの本の肝の部分が、竹宮先生の著書では二行で終わっている。
 もうこの時点で、半世紀経とうがなんだろうが深い隔たりを感じてしまう、勝手に。わたしはなんなのか。ただの外野。そうです。わかっちゃいる。

 サロンや24年組についての話も、完全にお二人のなかの基準というか、受けとめ方に差がありすぎて、もうこれだけで性格の違い(のようなもの)はなんとなく察してしまう。

 泣きたくなるのに泣けない。つらい。心がねじれる。ねじったうえで左右に力強く引っ張られてどうしたらいいのかわからない。

 城さんが傍にいてくださってほんとうによかったな。また身勝手にそんなことを思いました。しんどいな。そして萩尾先生に本を出版させてまで「これきり」と言わせてしまった一人として、その責務をさらに身勝手に持たなければと思ったのでした。

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