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第8回 君、音、朝方、etc 【私的小説】

「幸せ」の意味は知らなかった。
それは遠く見えない過去にあったと、
私は信じていた。

「18:13」
 部屋に戻る。今日はマーボーナスを作る予定だった。辛味は控えめだけど、山椒が効いてご飯が進む一品。サーちゃんは、「辛いの苦手だけどマーボーナスは食べられる」と言った。
「もうお茄子さんの季節じゃないけどね」
「今はスーパーでなんでも置いてありますから」と私は言う。
「季節のもの食べなさいと言ったら、煙たがられるかね?」
「季節の野菜は栄養価も高いですしね」
 
 私は話す。合わせるでもなく。
「どうしてもお野菜高いから、トマトジュースとかで済ましてしまいます」
「私もトマト好きよ。昔は庭で取れて井戸水で洗っていただいたもの」
 彼女は笑っている。
「マーボーナス、感想明日お伝えします」
 彼女の背中を優しく一度触り、私は家路につく。

 コンビニで買った麻婆豆腐は美味しかった。
 これなら自分で作るのは割に合わないと思った。自分が何も作れないという空虚感が時々あった。料理をしないことをどうとも思わなかったけど、誰が思うことでもなかった。

 
 名前は響一、と言った。
「音楽を鳴らすのを宿命づけられてるんだ」
 彼は得意げに言う。「一人でね」
 
「バンドは組まないんですか?」と私は訊ねる。
「まだ限界が見えてないから。その間は一人でやろうと思う」
 彼は真っすぐに私を見て、その後視線を外し、言う。
「友達がいないわけではない。実際いないけどね。いや実際はいるけど」
「どっちですか?」
 私は笑う。またはその振りをする。
 
 彼は黙っている。時が十分経ったように私に声をかける。
「パン食べない?セブンのパン、美味しいよ」
 彼はチョコクリームが挟まった白いパンをカバンから取り出し、私に差し出す。
「ほれ、ちぎりパン。先にちぎっていいよ」
 私は首を横に振る。
「遠慮しないで」と彼は言う。
「遠慮してません」と私は言う。

「嫌い?」
「いや」
「じゃあ、いいじゃん」
「やっぱり、嫌いです」
「やっぱり?」
「はい、そうです」
「分かりました、」と彼は言う。
「僕は、押し売りはしないので」
 捨て台詞みたいだった。

「名前何て言うの?」
 私は迷う。伝える必要のないことを訊かれたと思う。気持ちを上手く言葉にすることができなかった。沈黙が辺りを包む。

 彼は言う。
「昔さ、演劇見たことがあって。二人の男女がホテルにいる。その日、出会った二人はずっと話している。そんな完結された世界。名前など必要なかった。放つ言葉は全てあなたのものだったから」
「その二人と、今は同じということですか?」
「原理的には」
 
 近すぎて、逃げたい。でも留まりたい。
 微かに思う、そんな距離だった。
 彼は言う。

「一人で音楽を奏でることは、あるいは出来るかもしれないけど、一人で会話することは出来ないから。全てあなたのもの」
 一人で悦に入った言葉が、直感的に嫌いだと思った。
 私に訊く。
「どう思う?」
「どうも思いません」
 彼は息を吐く。
「叔父さんから教えてもらった舞台だった」
 私は前を向いている。今日はどこか街が静かだと感じる。
「仲いいですね」
「どこかで通じ合っている気がしてたよ」
 彼はもういないのだろうか。
「そうですか」
「そう、それは間違いのないこと」

 一人の若者が広場に近づいてくる。スケートボードを傍らに携えている。  
 青年は私たちを見ない。 彼は質問する。
「名前また訊いていい?しつこい?」
「雪です」
「漢字。降っては溶ける、あの雪?」
「はい」
「素敵な名前だね」
 名前は素敵だけど、本体はそうでもないね。昔からそう言われている気がした。
 
「君にぴったりの名前だ。君が現れたら皆が喜ぶだろう。冬がやってきたって」
 やめて、と胸の裡で呟く。
 響一はなおも言う。
「冬が来るまでに曲作ろうと思う。決めた」

 勝手にしてと、私は呟く。誰にも聞こえない声で。

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