いつだってここから始めるしかない

どんな時も、深くため息をついた後はこう思っている。

”いつだってここから始めるしかない”
そのフレーズが浮かぶ。

昨晩もソファでため息が出た後にそう思っている自分に気づき、ふと文章にして見ている。それは本当に事実で、もはや早々にそう思って動き出すしかない。覆水盆に返らずだ。

けど、その飼いならされた、もはや条件反射のような思考に身体がついていかない時がある。わりと今がそうだ。絶不調。

自己コントロールしようとする私の中で、泣いてヤダヤダと手足をばたつかせてたい自分がいる。上着も羽織らずに、藪の中をあえて駆け巡りたいような衝動がある。

その感情を飼いならすだけで、疲れている。
いっそもっと感情を自由にとも思うけど、その負の感情の部分をそのままコントロールしないで、そのまま自由に置いておいてしまったら、私自身もおかしくなってしまいそうだと思う。
私が狂うこと。いつもそれが怖かった。

個として、やっていくならせめてちゃんと私の芯は手放したくないという思いがある。だから、私は自己コントロールを手放さない形でやってきた。
それで日々がきつくなりそうなら、環境を整えたり、入れる情報を減らしたり。一度そういうものと距離を置く。そういう対処をとってた。
わけもなく、騒ぐくらいなら、感情が静かになれるように、身体も思考も休めるように睡眠を取る。
ストレスの身体的対応として、不眠が出る人がいるが私は過眠型なのだと思う。寝て整える。

しかし、寝たってここから始めるしかないってことは変わらないのも、もうわかっていて、最近はうーんうまくいかない。
抑えることに疲れて、ぼーと考えながら、距離を置いて箱にしまった物事を見る。

うまく表に出せなかった感情は、イメージの箱、その中でばたついているのがわかる。
リアルタイムに表さなかったからこそ、今現在との自己との乖離で、扱いが難しくなった感情。自己コントロールのつけ。
いまさらどうしたらいいのかと思う感情。

そういうのが、自分の文章にも出ていて、ちょっと困る。

noteももっとスマートに使うつもりだったのに、書きたいことが飛ぶ。


こんな予定ではなかった。noteで言葉を手段として適切に扱える人や、仕事として扱っている人たちのスマートさを見ると、私の書くということへの客観性のなさとか、書きたいことの内容のまとまりのなさが嫌になる。
スマートでいたかった!という欲。

でも、わかってる。
それも、ここからはじめるしかない。

ので、これを書きながら諦めをつけている。
もう書きたいことを書きたいにシフトをきろうと。最初に書きたかったまとめは、箱の中身を出してから、順番に書いていけばいい。

ここから、やっていくしかない。

書いていて、思う。
ため息を大きくついてそう思えたら、
私の調子は少し上向きだ。


箱の中でばたついている感情の中で、最近ばたつき始めたものがある。
それは幡野さんの兄弟児の子との質問箱のやりとりを見ていて生じたものだ。その女の子の吐き出した痛みはよくわかった。
彼女の痛みが、物事はいつだってここから始めるしかないと、そう受け止めるまでの私と似ていると思ったのだ。

それについて次に書きたい。



ひとまず了

果ノ子(写真は毎回βから借りていますが、今日の写真も好み)

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