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ドリップコーヒーを巡る思索【2022.11.28】

ドリップコーヒーは、砂時計に似ている。コーヒーの粉に熱湯を注ぎながら、ふと思った。

コーヒーの抽出は重力によって一定の時間がかかり、時短はできない。確固たる時の歩みを感じさせる。

滴り落ちるコーヒーは、過ぎゆく人生の時の砂も可視化する。

私の人生の砂時計は、どれだけ残っているのだろう?先月、節目を迎え、人生の残り時間を考えるようになった。

「生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ」

ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』(新版、池田香代子訳、みすず書房)

「自分は何のために生きているのか」ではなく、「自分の人生には、どんな意味や使命が課せられているのか」を考える。自分中心の視座を変えることを、フランクルは〈コペルニクス的転回〉と呼んだ。

子や孫を持てば、自動的に生命を継ぐ役割を果たせる。でも、そうでない人は?

「生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない」

同上

少しは世の中の誰かの役に立ちたいけれど、私に課されたことは何だろう?  「書いて伝えること」の重さに改めて背筋が伸びた。

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