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LGBT、おじさんにとっちゃあ地震

(※6月17日、文章の真ん中辺りに色々と付け加えました。)


「LGBTを差別しているなんて時代遅れだね」「令和なのに古い考え方だね」性的少数者差別に対し、よくこうした批判が投げかけられる。

そうか。今やLGBTが時代なのか。そんな風に思った時、僕は何となく、時代に置いて行かれたような気分になった。

いわゆる「時代遅れで古いおじさん」が代表するような保守的な価値観を持つ人々が、種の保存がーとか、生物学的に認められないーとか言っている間に、リベラルの人達はジェンダー平等などの思想をギンギンに尖らせている。

いつの間にこんな差ができてしまったのだろう。

2年前のある記事では、LGBTの存在に違和感を覚える男性の内情が明かされ、ネットでは差別的であると炎上した。


この記事の中の男性も、突然起こったポリティカルコレクトネスの波に戸惑っているようだ。

10年も前にはLGBTどうの、ジェンダーがどうのという議論は全然起こっていなかったはずなのに、今やLGBT差別は時代遅れとまで言われるようになった。

例えるなら、保守のおじさんプレートがのほほんとしている間に、リベラルプレートは地盤へと沈んで活動を続け、その差が閾値を越えた今、日本列島を揺るがす地震が起こっている。そうして起こった大津波にLGBTが乗りながら、何も知らないおじさんたちを飲み込まんとしているのだ。

ちなみにだが、こんなアホな例え話を書いている僕自身は、LGBT当事者である。

僕は今まで女性と性的関係を持ったこともなければ、そんな意欲を持たせたことがない。更に言えば、僕の下半身は子孫を残さないどころか、勃起状態になることすらないままその生を終えることになるだろう。

そんなバキバキの童貞かつ性的少数者のくせに、時代の波に取り残されてしまった。

そんな時代に疎い変人が、こんな全方向から怒られそうなことを書きながらも、LGBTが時代となった今についていけない同士たちにこの記事を捧げたいと思う。

さて、先に書いた地震の例え話、自分的にはちょっと気に入っている。なぜなら、性的少数者、LGBTQ+、クィアと呼ばれる人達は、保守的なストレートの人達にとって、彼らのアイデンティティを揺るがす存在であるからだ。

これを聞いて、

「LGBTの何がその他の人々のアイデンティティに影響を及ぼすのだろう」「アイデンティティをボロボロにされてきたのはLGBTの方だ」

などと思う人が普通だと思う。最もである。けれど、この点を押さえていかなくては、おじさんたちとの歩み寄りは難しくなるだろうと僕は思っている。

とりあえずはゆっくりと考えていこう。

まず、アイデンティティとは、ざっくり言えば「私は〇〇である」と言う時の〇〇にあたる。僕が「私は男である」と思う時、男という属性は僕のアイデンティティであると言えるだろう。逆に、自分で「私は〇〇である」と宣言したくないようなことはアイデンティティとは呼べない。

例えば、毎日違う男の人とセックスをする女性がいたとする。その際、客観的に見ればその女性は「経験人数が多い」と思われるかもしれない。しかし、当の女性がそんなに経験人数が多いなんて自分では思っていない、ということになれば、「経験人数が多い」という属性は彼女のアイデンティティではないのである。

自分はこんな人です!と胸を張って言えるようなことが、アイデンティティであると思ってもらっていいだろう。

僕の主張に当てはめると、保守的なストレートの人々にとっては、LGBTを認めることが彼らの「私は〇〇である」を崩しかねないということだ。

ならば、彼らの揺るがされる〇〇とは何か。

それは「私はストレートである」というアイデンティティである。LGBTの存在によって、ストレートであるという自信を、居場所を、彼らは揺るがされている。

どういうことだろうか。

きっと、自分がストレートであるということに意識的に自信を持っている人はいないだろう。「わあ!俺は男で女が好きだ!自信つくなあ!」なんて思っている人は少ないだろう。

彼らは、ストレートであるという属性をアイデンティティとしていることに気がつかない。

なぜならば、それが当たり前のことだからだ。

男性器を付けて生まれてきたのなら男、無いなら女。男なら女を愛し、逆も然り。それが当然だし、大体そうなる。

当たり前であるがゆえに、そのことを意識することは少ないかもしれない。

しかし、ストレートであるあなたが、今日突然にストレートではなくなってしまったらどうなるのだろう。

男なのに、男に惹かれてしまうようになった。女なのに、男として生きたいと思うようになった。そんな事が起こったら、あなたはどんな気持ちになるのだろうか。

いきなり自分のセクシャリティがしっちゃかめっちゃかになってしまう。もしそうなった時に自分がどう感じるのか、想像してみてほしい。

きっと、不安や動揺といった気持ちは確実に表れるだろう。

自分が変わってしまった。今までの積み上げた価値観がひっくり返ってしまった。

そんな人生、生きていたくないと思う人すらいるかもしれない。

なぜ不安になったり、動揺してしまうのか。

それは、ストレートであるということが、ストレートの人々にとってのアイデンティティだからである。

ストレートであるということで、あなたは自分に安心感や信頼感を持てるのである。または、他の人との連帯感も感じられるかもしれない。

だから、それが崩されてしまうと、不安になったり、自分が分からなくなってしまう。「私は○○である」と胸を張って言えていたのに、言えなくなってしまう。

これでなんとなく、ストレートであるということとアイデンティティの関連性について分かって貰えただろうか。

では、もう少し話を深めていこう。

普段は意識しないけれども、確かに自分のアイデンティティとして機能しているストレートという属性。では、なぜそれがアイデンティティとなり、あなたに安心感や信頼感を与えるのだろうか。

「普通」であるという安泰だろうか。LGBTよりも生きやすいという気楽さだろうか。

それらもきっと間違ってはいないと思う。しかし、もっと根源にも何かがあると僕は思っている。

それは、努力してストレートになるという自信である。

は?と言う声には僕も気づいているので、もう少し説明させて欲しい。

ストレートであるためには、努力が必要である。当たり前にストレートをやっていても、頑張っているのだ。

逆に問わせて欲しい。ストレートであるあなたが、男として、女として生きていく上で「大変だなあ」と思ったことはないだろうか。

男ってつらいなぁ、女として生きるためには手間がかかる。そんなため息をつきたくなるような時が、時折あるのでは無いだろうか。

それが、あなたがストレートとして生きるうえで努力をしている証拠である。

たとえ当たり前のジェンダーで生まれてきたとしても、その性を生き続けるためには努力が必要なのである。

その努力の果てに「私はストレートである」という自信を得られると、達成感や安心感などもついてくる。

こんな話をする人はそうそういないだろうし、まだよく分からないだろうから、もっと詳しく説明させてほしい。

ストレートであるために具体的に必要な努力、その過程に立ちはだかる苦難とは何か。

例を挙げよう。

男であれば男らしく、女であれば女らしくといった、そうした性的役割、ジェンダーロールも、ストレートとして生きるうえで苦難の一つとなる。

そんなもの捨てればいいって?

もちろん、世間で批判されるジェンダーロールは、大体は外からつけられたものであり、捨てても構わないものが多い。男は働いて女は家を守る、とか、女はお茶くみをする、男は力仕事をする、などのジェンダーロールは非効率だし意味が無いのだから捨てればよい。

しかし、捨てられない男らしさ、女らしさもある。

それは、捨てたくない男らしさ、女らしさである。

例に挙げやすいのは、一番は恋愛だろうか。一般に恋愛においては、男の方が女よりも身長が高いことが求められる。

これもポイっと捨てればよいジェンダーロールなのだろうか。いや、そうではない。

なぜなら、男の方が身長が低いとなったとき、女は頼りなさ等を覚える場合があるだけでなく、男自身も自信等を失ってしまう。どっちも不満になってしまう。

「男の背の方が高くあるべき」などと誰かが言ったわけでもないのに、男も女もそれを求めている。そして、実際にそれが満たされれば、両者とも満足する。

こういった価値観が、捨てられないし、捨てたくない男らしさ、女らしさの例である。

男は女より背が高くありたいし、女は男に背が高くあって欲しいのである。

誤解を招かないように言っておくと、僕は「男の背の方が高くないとダメ」なんて一ミリも思っていない。ヘテロセクシャルの恋愛なんて関係ないしどうでもいいとさえ思っている。男性側が低身長で満足しているカップルもいるだろう。ただ、一般的にはそういう価値観の方が大多数だよね、というだけの話だ。

話を戻そう。上記の例だけで僕の言う男らしさと女らしさは分かりにくいかもしれないので、今度は僕自身を使って考えてもらいたい。

僕はさっきも書いた通り、LGBT当事者である。性別は男だが、それに対して違和感を感じたことはない。しかし、男らしくあろうとか、女らしくならないようにしようとか思ったこともない。

こうした文脈では、僕は男らしさや女らしさの外側にいる人間である。

僕は身長が161㎝とそこそこ小さい方だが、そこに劣等感も優越感も感じたことはない。話す時には自分を「わし」と呼び、びっくりしたときには「いやーん!」と叫ぶ。そして椅子に座る時には、股関節の限界まで足をかっぴらきながら、マスクからはみでるほどの大あくびをする。

もちろん、モテようと努力したこともないので、服装はちょっとイタいモデル気取りみたいだし、必要に応じてコンシーラーなどメイク用品も使う。友達に関しても、同性にせよ異性にせよそのコミュニティに入ろうと頑張ったこともない。

この記事を読んでくれているストレートの知人がいれば、少し僕のことを思い出してもらいたい。僕を見たことがない人は、今の自己紹介からどんな奴か想像しながら、僕の知人になった気分で読んで欲しい。

さて、知人のみなさん。あなたたちは、僕と接しながら「こいつってズルい奴だな」と思ったことはないだろうか。

自分はモテるために、彼氏、彼女を喜ばせるために、男・女集団に溶け込むために、苦しみながらも自分の性に従って生きているのに、保毛陽斗はその境界や制約が無いかのように生きているのがズルいと。

だからといって、僕のようになりたいと思うわけではないが、たまに羨ましくなる時もある。そんなイラッとモヤッとくる感情を僕から与えられたことはないだろうか。

異性のための服装、振る舞い、声色。同性の友達間でのノリ、冗談、競争。

それらを満たすのは容易ではないし、時に嫌になることもある。しかし、それでも捨てきれない。満たされた時の喜びはひとしおなのだから、どうしても求めてしまう。

逆にいえば、僕のような存在は、そうした性の制約に縛られていないものの、それらを満たす喜びを味わうことができないのである。だから、だれも保毛陽斗になりたいとは思わない。

彼氏や彼女ができると嬉しいのは、その人から得られる喜びももちろんだが、それまでの苦しい努力や悩みの結果に、自分の目標を達成できたという快感も相まっている。満たすしかない欲望を満たせた喜びである。

話が大分細部まで来てしまったが、こうした欲望も捨てたくない男らしさ、女らしさといえるだろう。

ここまで話すと、たかがストレートといえど、性に従って生きるのは難しいということが分かる。

それは分かった。しかし、それとLGBTの存在に何の関係があるというのか。

ここで、先ほど皆さんに僕を通して感じてもらった「ズルい」という感情にフォーカスしてもらいたい。

僕のような存在がいると、ストレートの人はよそ見をしてしまう。一生懸命に男としての人生、女としての人生をひた走っているのに、LGBTが視界に入ってくると、こんな人生もあるのかと思わされてしまう。

全員で同じ目標に向かっているから苦しくても頑張れるのに、そこから抜け出す人がいると頑張れないのだ。

言わば、LBGTは脱税者である。ズルく映ってしまう。

あるいは、男全員がよーいドンで出発した「男らしさレース」があるとする(女版でもよし)。その中で勝つのはきっと誇らしいものだろう。しかし、レースに参加する人が減れば、優越感は減ってしまう。10人と競争して勝つよりも、100人と競争して勝つ方が嬉しいのである。

当たり前に生まれ、当たり前に生きて、当たり前に努力をしてきた。そうして構築してきた世界観や価値観が、LGBTによって崩されてしまう。

ストレートであるということは、全員がストレートであるということも含めたアイデンティティなのだ。

これが、僕がストレートの人たちのアイデンティティが、LGBTによって揺るがされると主張するゆえんなのである。

今回のLGBT理解増進法の案が進むにあたり、愚かな理由で棄却したおじさん達も、こうしたアイデンティティの揺らぎを怖がっていたのかもしれない。

きっと、妻子もいて、今まで男たるもの!と思って頑張ってきたのだろう。そうして身につけた自信や優越感がLGBTを認めると壊れてしまう。自分の価値観を一度組み立て直さなきゃいけなくなる。50年も60年もかけてやっと築き上げたものがゼロになってしまう。

そしてこうしたアイデンティティは当たり前で意識されることがないから、おじさんたちもあれやこれやと理由を取ってつけては、LGBTをはねのけるのである。

どうだろうか。少しでも、LGBT差別の内実に近づいた感じがしないだろうか。

僕はLGBTを脱税者とかいって批判したいわけでも、保守的な人々を叩きたいわけでもない。ただ、生物学的にーとか、種の保存ーとか、ああいった言説そのものを拾ってもしょうがないのである。あれは、後から取ってつけた適当な理由に過ぎない。

私たちの目指すところは、なぜそこまでしてはねのける必要が彼らにはあるのかを考えることにある。

僕のアイデンティティがうんたらかんたらの論が全くの的外れでも良い。けれど、LGBTを気持ち悪いと思ってしまうおじさん、もしくはあなたがどうしてそう思っているのか、そこを考えることは誰にとっても悪いことじゃあないはずだ。

もちろんLGBTは地震でも脱税者でもないが、ストレートの人々にとって、彼らの世界観を変えるような存在である可能性はある。

そこを全て差別という言葉で片付けてはいけないと僕は思う。最初に書いたnoteでも言っていたことだが、差別という言葉は慎重に用いらなくてはいけない。

上記で挙げた2年前の記事で、感情を素直に吐露したがために叩かれた男性にいつか伝わってほしい。僕がこのnoteを書く上で一番参考になったのはあなたの言葉であると。LGBT当事者として、彼に感謝したい。

僕は虹色のシャツを着て、LGBT差別反対!などと大きな声で言える人間ではないが、どこかでこの記事がLGBTの分からないおじさんを救うといいなと思っている。

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