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「語られる」ことを目指したい ~”専門性”ってなんだ?という話~

すごく真剣に自分に向き合っていて、自分の目標のためにアフリカでプロサッカー選手になったりYouTubeを始めるたり、とにかくチャンスに飛び込むというか常にこじ開けていくような、かっこいい後輩がいる。

とても活発で魅力的な動きをするのでメディアに取り上げられたりもしていて、そんな彼と話したことがある。

「おれも取材とかされたいなー。」

すると彼は言うのだ。

「いやいや、こういうのは自分で売り込んでいくんですよ!」

わかる。わかるんだが、少し引っかかるんだ。

それは「語る」ことで、「語られる」ことではないよなあ。

僕はたぶん、「語られる」ようになりたい。

(もちろんいろんな過程はあるだろうけど今となっては)その彼自身も、しっかりと第三者から「語られる」存在なのだ。


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○○の人と「語られる」こと


メディアに取材されたり活動を取り上げられたりするとして、たいていの場合はその人の(目立ったり、媒体のトピックに合った)ある側面にスポットライトをあてて表現されるはずだ。

うまく表現できずに「取材をされるようになりたい」と、ある種ミーハーに聞こえる言い方をしてきた時期があったが、もう少ししっくりする表現が見つかった。

○○の人と語られたいのだ。「○○だったらあいつに聞けばいいよ」と紹介されたいのだ。

そうやって「語られる」ようになれば、そのフィールドで世間から認知されるくらいの専門性をもてているといえるのではないだろうか。

「○○の人」と語られることを目指して、その○○を育てていきたいと思っている。


これをしっかりと言語化できたのは、今年の2月に専門性について考えるイベントに登壇者として誘ってもらった時。

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▼写真左のお姉さんが書いたイベントレポートはこちら

”専門性”とキャリアについて参加者と一緒に考えていくイベントの中で

「どこまでいけばこれの専門です、といえるの?」
「仕事にできていれば専門っていえるんじゃないだろうか。」
「お金になってないけど、専門家って呼ばれるような人もいるよね」

というような話の中でふと思った。

仕事にしていようが、趣味の領域だろうが、人から「○○の人」と思われるということは、少なくともその人やその周囲の人からは○○に詳しい、○○に長けてると評価されていて、

そう世間から「語られる」ことが、”専門性”や”専門性のタネ”の表れなのではないだろうか。

(そして「語られる」ようになれば、そのうち自然と仕事やお金に変わるのだろう。身近なケースとして、僕の知り合いに「ジェットコースターの人」がいる。ちなみに彼の本業とジェットコースターは関係がない。)


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”専門性”の階層性

先ほど紹介したイベントの中で、もう一つ印象的だったこと話題が「”専門性”には階層性がある」ということ。


僕はスポーツ業界の人なので、自分の専門性の中に「スポーツ」というのが入ってくる。

ただ、学生時代はその所属先自体がスポーツを専門としているので、当然ながらスポーツの専門家ばかりがいる。その中で「君の専門は何?」と聞かれると、「サッカー」や研究領域だった「スポーツ心理学」と答えることになる。

大学のサッカー部でコーチをしていたので、サッカー部では専門(というかもはや「役割」になってくるが)は、「指導」である。プレーすることはその時の僕の仕事ではないし、関わる選手たちは「板谷隼はウチのコーチ」と思ってくれていた(と信じておく)。さらにいまはジュニア年代を担当しているので、「ジュニア年代の指導」の専門性を持つことが求められている。


一方で、例えば「まちづくり」をする、あるいは興味がある人のコミュニティの中に飛び込むと、やはり僕の専門性は「スポーツ」になる。スポーツをまちづくりに生かすとか、地域社会の中にあるスポーツという視点で発信ができると専門性を活かして貢献ができていると感じられそうだ。


「どこまでいけば専門だと言っていいのか」問題というのが先のイベントでも上がったが、そこには「上には上がいる」というそこで努力したからこそ実感する一種の敗北感があるのかもしれない。

ただ、世界のトップではなくても、あなたの周りではあなたが一番それに明るいのであれば、じゅうぶんに「語られる」可能性はある。

「世間から語られる」ことの「世間」を大きくしたり小さくしたりして、自分がもっとも必要とされるところで”専門性”を発揮できれば、自分も周囲もきっとハッピーだ。


ところで1週間くらい前、「現場のコーチの専門性」について書いたら思いのほか反響があって、2日で自分のnoteの過去最多PV記事になった。


今回の話と合わせると、専門性の階層性を掘り下げていった一番奥に「目の前の選手のコーチ」という専門性が求められるのだ。


加えていうなら、選手やその保護者、クラブの同僚に「僕のコーチは…」「あの子たちのコーチは...」と、自慢気に語られるようになるのを目指したい。肩書や役割だけでなく「どう語られるか」は重要だ。

もし本当にそう語られるようになれば、これ以上なく嬉しいことだと思う。


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とりあえず、いまは「語る」

僕自身がいま描いていることとして、いまお仕事としてさせてもらっているスポーツやサッカーに、自分のフィールドを絞りたくはないと思っている。

「教育(ひとづくり)の人」や「まちづくりの人」、ほかにも「チームづくりの人や「場づくり」、「コミュニティ」、「リーダーシップ」。


関わりたい、さらには仕事にしたいフィールドはたくさんあって、それらを勉強したり自分が持っているもの同士でかけ合わせたりしながら”専門性”を深めていきたいと思う。

そしてその先で「語られる」ところまでを目指しているのだけど、進捗はまだまだだ。

今の自分では「語る」ことが精いっぱい。だからせめてと思って、こうして自分のことを発信している。

ただ、それをずっとやっていても「語られる」に近づくのだろうか?


だから、「語る」は「語る」でも、自分ではない誰かを「語る」ということを始めてみた。

これがとても難しい。人のことを文章にするのは、自分がその人を魅力的に感じるからこその「これじゃまだ伝わらない!!」が生まれて、書くたびに生みの苦しみを感じている。


ただこうして「語られる」側の人を実際に語ってみることで、その人がもつ魅力や培ってきたストーリーを感じられるのは経験になっている。そして何より楽しい。


「語る」を通して「語られる」を感じる。そんなことを繰り返している道半ばだ。僕は将来、「どう語られる」のだろう。


自分に合ったやり方を模索しながら、これから自分が「どう語られるか」に期待している。



あとがきのようなもの↓

【ひとり議事録(仮) vol.3】それはたぶん「やらなくてもいいこと」じゃない



P.S.

文脈は違えど、「語る」「語られる」という言葉はえもじゅりさんのnoteからインスピレーションを受けました。ずっと心に残っている文章です。


冒頭に書いたすごい後輩のYouTubeチャンネルはこちら





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