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「誰かを救う」ということ

ここ最近、「誰か救う」「誰かに救われる」ということについて考えさせられることが多くあったので、そのエピソードと共に考えたことをつらつら綴りたいと思います。

この記事は自分自身が迷ったときの指標としてしたためますが、こうして顔が見えない誰かに発信する場に身を置くみなさんにも、通じるものがあるといいな。

ここで伝えたいのは主にふたつです。ひとつは「自分が救いたいと思った人を救えなくとも、その想いや祈りが、見えないところで別の誰かを救っている」ということ。そしてもうひとつは、「救われたと感じたなら、伝えてほしい」ということです。

「誰かを救いたい」という切望があった

既にいろんな記事で書いていますが、私がnoteで文字を発信する目的は「自身の消化」です。と言いつつも、私の中には常に「誰か救いたい」という、己を削る切望がありました。そして、そんな自分が「誰かの力になる事を通して、自分が救われたいのだ」という自覚も。

私は、あるアーティストが師からもらった「観客はお前の歌詞に泣いているのではない。お前の歌詞に自分を重ねて泣いているだけだ」という言葉を、自分の驕りやエゴを嗜める為に胸に刻んでいます。それを執筆に置き換え「自分が救ったわけではない、相手が救われたと感じているだけだ。相手には相手の人生がある」と頭では考えていました。

しかしnoteをどれだけ公開しても満たされない感情がありました。確かに私の文で何かを感じてくれた人はいるみたいで、おかげさまで、たくさんのスキや、コメントをいただきました。そのたびに心は暖かくなったけれど、同時に渇望も強くなっていきました。

「私自身は、誰が救ってくれるのだろう」
「私はどうやったら私を救えるのだろう」

もしかしたら、コメントをしなかった誰かにとっても、私の記事は救いになっていただろうか。そう考えながらダッシュボードの数字を見つめても、心の穴は埋まりません。そしてそこには、伝える相手が目に見えない相手である以上、「誰かを救えたかどうかは救われた本人にしかわからない」「その救いが、私には実感として届かない」という事実が横たわるのみでした。

「誰かを救うこと」について考えさせられた日々

詳細を語ると長くなるので省きますが、少し前、「ある人を救いたい」という想いが暴走し、苦しくなった時期がありました。その救いたい人とは、私の手の届かない人でした。そして「救いたい」という想いは、相手を本当に想うものではなく、私が勝手に感情移入しているだけ……私の理性は、それを理解していましたが、感情は抑えられず苦しみました。

何もできない私は、自分の無力さを痛感する日々が続きました。理性で抑え込まれた感情は私を苛み、自分を燃やす怒りは、相手への怒りにも転じます。私は相手を傷つけないよう、意図的に距離を置き、自分をなだめようと必死にもがきました。

しかし、その怒り、無力感を溶かすように、立て続けにいくつかの言葉に出会いました。

ひとつはこちらの記事。

心配するのは、その人を想うが故ですが、想うのなら、心配するより、祈った方が断然いい。

痛いほど身に沁みました。そして旦那にも同じことを言われました。「何かをしてあげたい」というのはあくまで自分のエゴ、それを再確認しました。私は相手を傷つけたいわけではなく、心の底から相手の幸せを祈っています。だからせめて、想いは届かなくとも、必死に祈ることにしました。

また、年末に見たアニメ「ロード・エルメロイⅡ世の事件簿」にこんな台詞がありました。

「何かを救って得られる満足感など、脳の誤認でしかない。誰かを助けても、自分が救われるわけじゃないし、自分が助けたと思っても、本当に相手が救われたかどうかなんて知れたものじゃない」

そして、そう言う主人公に対して、弟子の少女はこう言います。

「少なくとも、拙は師匠に救われました」
※「拙」は少女の一人称

それで私は改めて気付かされました。「救い」とは救い手が救った実感を得るものではなく「救われた側の感情」なのだと。

そして私自身も救われた

年始にこの記事を読みました。毒多さんは、年越しのとき、あえて人の苦しみに耳を傾けるということを徹夜でされたそうです。

日本全国「おめでとう」だからこそ、苦しみを聴いているヤツもいるよ、を実行したかった。

私はこの記事……というか毒多さんの行動に「救われた」と感じました。

年末年始、心を開けない実家でストレスを抱え、「おめでとう」と脳天気に新年を祝う世間に勝手にファイティングポーズを取っていた私は、毒多さんのこの行動に「一人じゃないよ」と言ってもらえた気がしたのです。

このことを通じて「世の中、案外と目に見えない所で誰かが誰かに救われているのかもしれないな」と思いました。

これが冒頭に書いた「自分が救いたいと思った人を救えなくとも、その救おうという想いや祈りが、見えないところでまた別の誰かを救っている」という気付きに繋がったのです。

信じ、想い、祈り、そして生きていくこと

祈りや想いが見えないところで誰かを救う……そんなの気休めだ、という人もいると思います。

実際、本人にとっては気休めです。「救えたとわからなければ意味がない」「救いたい相手をこそ救えなければ無力だ」という人もいるかもしれません。確かに救う側からすれば、目の前の人を、救いたい人をこそ救えなかった無力感は計り知れないでしょう。私自身もその言葉に囚われ、よく惑います。けれど「仮に目の前の相手を助けられたとしても、本当に相手を救えたかどうかは、本人にはわからない」のです。

だからこそ、誰かを救いたいと思うならば、結局我々はできることをしていくしかない。手の届く相手ならば、相手の幸せについて考え、その手助けをするのもいいでしょう。手が届かなくても、祈り、想い、それが届くと信じて祈ることだけでもいい。

そしてその「誰かを救いたい」という祈りは誰かに確かに届いています。数が少なくとも、それが誰に届くかはわからずとも。たとえあなたが苦しみの渦中にあろうとも、それでも確かに、誰かの心にあたたかな火を灯すはず。

これは気休めなどではなく、私自身が感じたことです。このnoteでも、スキの数が少なくても、私しか読んでいなくても、私自身が救われた、楽しかったと思った記事はあります。

しかし、それが「本人にわからないから苦しいのだ」という意見もわかります。しかし、わからないという事実をわかった上で、救いたいと願う我々はどうすればいいのか。

結局、相手を想い、届くと祈りながら、自分にできることをすることだと思います。日々の営みに真摯に向き合うもよし、苦しみと闘うもよし、何かを楽しむだけでもよし。我々書き手ならば、自らを燃やし、書き続けるということ。ときには自分も顧みて、自分が無事に生きているよ、と人に知らせること。あなたが生きているだけで、救われる人も確かにいるのです。私とかね。

それは命のこもった言葉でなくとも、何気ない日常でもかまわない。何が誰を救うかなどわからないし、救われたと思うのは本人の主観でしかない。これだけは、変わらない事実です。けれど、大したことないと思っていたことが、誰かの希望になることもある。それもまた事実なのです。

何かを感じたなら、できれば伝えてほしい

もしあなたが何かを求めて記事を読み、何かを感じたなら、できればその想いを書き手に伝えてほしいと思います。

これは書き手としてのお願いでもあります。

noteなら、スキを押すだけでもいいです。SNSでシェアするでもいい。マガジンにまとめてもいい。

でも、欲を言えば言葉で伝えてほしいと思います。

誰しもがSNSをやるようになり、人と人とが気軽につながれる時代になりました。しかし手軽につながれる、ボタン一つで相手に好意を伝えられるがゆえに、言葉で伝えることが減ったなと私は感じてしまいます。

書き手にとって、あなたが記事を読んで救われた気持ちは、ダッシュボードの数字では「1」でしかない。書き手がどれだけ想像を懲らそうと、数字以上にはならないんです。

だからこそ、言葉で伝えてほしい、と私は思います。書き手のわがままかもしれないけど、書き手と読み手の距離が近いのもSNSのメリットだから。noteに登録しなくても、Twitterでコメントつけてのシェアでもいい。方法は何でもいいけど、相手に伝わる形で、どうか伝えてほしい。私も、スキだけのときもありますが、マガジンにまとめたり、できるだけコメントするようにしています。

noteに限った話ではなく、創作をする人、発信をする人、様々な想いの人がいると思います。けれど、救いたいと願う者こそが「救われたい」と、あるいは「救われたと感じたからこそ、恩返しがしたい」と思っていると知ってほしい。少なくとも私はそういう気持ちで書いています。

だからできれば、恥ずかしがらず伝えてほしいと思います。どんな言葉でも、もらえれば嬉しいのです。たとえ一言だけでも、きっと書き手は救われています。私もしっかり噛み締めています。

私自身、そんな想いがあるので、今ではむしろうざいくらいにコメントする人間になりましたが、以前は臆病で「こんなことを言っては不快に思われないだろうか」と、好きな作家さんに「好き」の一言すら言えずにまごついていました。しかし、勇気を出して感想を送ったとき「あなたの感想に救われました」と言ってもらえたのです。

実社会でも、好意や感謝を伝えることは、きっといい方向に向かうはずです。日本人は特に恥ずかしがりな人種なので「そんなつもりじゃないよ」と受け取ってもらえないかもしれませんが、どうか勇気を持って伝えてほしい。言葉はその時しか発せられませんが、きっと相手の心に残り、ゆっくりと、でも波紋のように広がるはずだから。その言葉がいずれその人の糧になることもあるはず。

私も未だに、誰にも届いていないような気になって、自分ばかりが辛く感じてめげそうになるときもあります。けれど、この「祈り」はつながって、いつか本当に救いたい人に届くと信じて、これからも書き続けたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。何か響くものがあったなら幸いです。

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