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「写真の価値」と「思い出の価値」に相互作用はあるのか。

 先日iPhoneを落とし、さらに車にも轢かれてカメラ機能がお釈迦になったので修理するか、代用カメラを用意するか考えていました。

 まず修理費用を調べたところ、純正カメラだとそこそこの値段。
 次にデジタルカメラだが、これはどうも学生の懐には痛い値段。
 思い切ってアナログ化して『写ルンです』を考えたが、現像料や撮影可能枚数を考えると長期的にはこれが最も費用がかかる。

 …そんなこんな考えているうちに気が反れて、「写真の価値」を考え始める。
 デジカメ以前は写真は現像するもので、何でもかんでも写真を撮れるわけではなかった(と思う)。
 ゆえに、撮影や現像は現在より価値が高かったはずである。
 
 対して、デジカメ以降はいつでもどこでも好きなだけ写真を撮ることができ、現像することなく画面上でその記録を振り返ることもできる。
 気に入らない写真は容易に消去することができる。
 なんて便利だろうか。
 
 ただその一方で、写真の価値は下がっているように感じる。
 現像する機会が減り、家族でアルバム写真を囲みながら思い出を振り返る機会も減ってきているだろう。

 ここで「思い出の価値」が登場する。
 写真にかかわる行為の価値が低くなることは、写真に記録された「思い出の価値」も下がってしまうのではないか?
 そんな考えが思い浮かんだ。

 個人の感覚的な根拠として、画面上の写真を見た時と、現像された写真を見たときを比較すると後者の方が感動することが多い。
 なぜだかわからないが、写真の解像度や色味、触り心地などに自分の感覚が反応しやすいのかもしれない。
 それらが思い出に付加価値のようなものを与えていることは考えられないだろうか。
 思い出という出来事の価値自体が媒体によって変化することはないが、その記録方法によって、その思い出に対する意識に変化が生じるように感じる。
 例えるなら、自分の描いた絵をそのまま積み重ねていくより、そのうちの何枚かを額縁に入れることによってその絵に対する意識が変わるようなものだと思う。
 おそらく額縁に入れた絵の方が価値が高く感じるだろう。

 ここまでの自分の考えを書いてきたが、これは何か答えを導きだそうとしているわけではない。
 デジタル化が当たり前の時代に生きる僕なので、アナログにロマンを感じ、ややアナログよりな考えになってしまったが、双方それぞれに便利不便がある。
 
 iPhoneの故障というハプニングから今回このような思考を巡らしたが、たまには立ち止まって今の暮らしについて考えるのも悪くないように思う。

 

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