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二つの背中

先週のことである。
出勤していつものように課の伝達ノートを開くと、前日の欄にYさんの字で以下のような珍妙な内容の書き置きがあった。
『本日○○様というお客様から、「試着した帽子をそのまま被って帰ってしまったので、明日朝一番でお返しに伺います」というお電話がありました。朝番の方、対応よろしくお願いします』
朝番の方、というのはつまり私である。はあい了解です、と言いながら判を押してノートを閉じた。

それにしてもどういうことだろう、と首をかしげてしまった。
かっぱらうつもりはなかったのに、うっかり持ち帰った、ということなんだろうか。
子供ならいざ知らず、いい大人がそんなことするなんてあり得るのかなあ、と不思議に思いながら開店時間を迎えた。

十時より少し前に、件のお客様はやってきた。
「すいません、昨日お電話させてもらった○○ですが」
真っ白な頭を綺麗に整えた上品な男性が、レジ台越しに静かに話しかけてきた。横には奥様とおぼしきスラリとした綺麗な白髪のご婦人が、穏やかに微笑みながら佇んでいる。
お二人とも、とても上品な面差しである。帽子を買わずにうっかり被って帰る、という突飛な行動と、目の前のご夫婦の風貌がどうしても結び付かず、私は一瞬混乱してしまった。

「持ち帰っておりますので、汚れたりしていないか、恐れ入りますが見て頂けますか?」
こちらがその台詞を言う前に、ご主人がそう言って、おずおずと帽子を差し出した。
実直なお人柄がうかがえる。ますます分からない。
簡単に商品をチェックする。幸い、帽子は何も汚れたりなどしていなかった。
「はい、大丈夫ですよ。ありがとうございます」
私がそう言うと、ご主人はホッとした表情になった。

商品を棚に戻そうと、そのままこちらに受け取ろうとした時、ご主人が言った。
「これ、買わせて頂きます。おいくらですか?」
この場合、常識的には当然に出る言葉だと思うが、先程からのあまりのお人の良さに私は思わず、
「本当によろしいんですか?」
と訊いてしまった。
「ええ、お願いします」
ご主人は穏やかに微笑んで奥様を振り返り、
「これがいいんだね?」
と優しい口調で問いかけた。
奥様はニコニコしながら、黙って小さな子供のように何度も頷いた。
執拗に繰り返すその仕草と、残酷なまでにあどけない奥様の表情から、私は瞬時に全ての事情を理解した。

ご主人は精算を済ませると、
「本当にご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。ありがとうございました」
と言って、私に向かって深々と頭を下げた。
「とんでもございません。ご丁寧にご連絡頂き、こちらこそありがとうございました。またお越し下さいませ」
私も丁寧に頭を下げた。
ご主人は奥様を振り返ると、
「さ、もうお金を払ったからね。もう持って帰って良いんだよ。良いのが買えて良かったね」
と優しく言って、持参した袋に帽子を入れると、
「それじゃどうも。お電話出て下さった方によろしくお伝え下さい」
と言って、放心しているような様子の奥様の背に、そっと手を回すようにして私に背を向けた。
「ありがとうございました。担当者に伝えます。お気をつけてお帰り下さい」
思わずちょっと大きめの声で呼び掛けてお辞儀すると、ご主人は振り返って泣きそうな笑顔で少し頭を下げて下さった。
奥様がこちらを向くことはなかった。
二人は支え合うようにして、小さな歩幅で少しずつ歩いて行く。
その背中を見送りながら、私は胸がぎゅうっとなった。

あのご婦人はきっとウチの母より年下に違いない。もし近い将来、母があんな風になってしまったら、私はあのご主人のように優しく出来るだろうか。
私達夫婦が老いて、例えば夫がお店の商品を勝手に持ってきてしまったら、私は途方にくれないでいられるだろうか。夫を責めてしまわないだろうか。
自信は全くない。

この仕事をしていると、嫌な人にも出会うけれど、こんな生き神様のような方に出会うこともある。
だから私はこの仕事が好きなのである。


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