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忘れられない退職日

私が独身の頃に勤めていた職場を退職した日は、色んな意味で忘れられない日になった。私だけではなく、あの日あの店に居た人全員がそう思っていると思う。
私の退職が印象的だった、と言いたいのではない。それどころか、みんな私の退職日だったことはきっともう忘れているだろう。
それぐらいもっと強烈な出来事が起こったのである。

店の内勤パートにKさんという人がいた。勤続五年以上のそこそこベテランで、普段は融資課の仕事をしていたが、仕事が早い為、時折頼まれて預金事務の後方の仕事を手伝ってもいた。
明るく気さくだったが、表情の割にはいつも顔色があまりすぐれず、眉間に皺を寄せていることの多い人だった。原因は頻発する頭痛で、ちょっと気圧が変わると頭がガンガンする、と言って更衣室でぐったり横になっている姿もよく見かけた。特に季節の変わり目はとても辛そうだった。
医師に何度診てもらっても原因がはっきりせず、結局鎮痛剤を貰って帰るだけになるので時間の無駄だからもう行かない、と言って、自分のロッカーに鎮痛剤の特大の箱を常備していた。

その日私はお得様への最後の挨拶を終えて、四時ごろ帰店した。すると総務係のYさんとSさんの席の辺りに、職員がいっぱい集まっている。違算があるとこういう状態になるので、ああ、今日も合わないのかな、と思って遠目に見ていた。が、どうも様子がおかしい。
暫くすると、先に帰っていたH先輩がその集まりを離れて私の方に近寄ってきた。
「お疲れ。めっちゃ怖かったぞ」
あまり動じないH先輩が、そう言ってふーっと息を吐いて肩を落とした。
「何があったんですか?」
「Kさんが突然泡吹いて倒れたんや」
「えっ!」
私はびっくりした。
「立ち上がって、窓口から伝票を受け取ろうとした瞬間やったらしい。オレはその直後に帰ってきたんやけど、みんな右往左往しとって。取り敢えず舌噛まへんように何か咥えさそうと思って、これ口に挟んでた」
先輩が示したのは太めのマジックである。私はふき出した。
「こんなん、つるつる滑ってあかんでしょう?お箸とかに綿巻かんと」
「オレのハンカチ巻き付けた」
冷静なのか、泡食っていたのかよくわからない対応だな、と思いつつKさんの病状が気になった。近所の大きな病院に救急搬送されたとは聞いたが、大丈夫だったろうか。
なんだか落ち着かない雰囲気の中で終礼が行われ、花束を貰ってお別れの辞を述べたが、私は今一つすっきりしないまま店を後にした。

退職後暫くして私が店を訪れると、偶然、来られていたKさんと出会った。驚いて声をかけると、Kさんは申し訳なさそうに
「在間さんの最後の出勤日にえらいことになってしまって、本当にごめんなさいね。ご迷惑おかけして」
としきりに謝ってくれた。
「元気になられて良かった!大変でしたね。脳の血管が切れたんですか?」
と訊くとKさんは違うのよ、と言ってこんな話をしてくれた。

なんとKさんの頭の中に、Kさんがお母さんのお腹の中にいる時に双子として一緒に育つはずだった、もう一つの生命の組織の残りがあったらしい。結局産まれてきたのはKさん一人だったのだが、その小さな未完成の組織は吸収されることなく、Kさんの頭の中にそのまま残ってしまった。そしてそこにもちゃんとKさんの血液が流れ込み、頭を圧迫して度重なる頭痛を引き起こしていた、ということだった。
マンガ『ブラック・ジャック』で似たような話を読んだことがあった(助手のピノコはそういった組織の寄せ集めだと記憶している)が、まさか本当にあり得ることだとは思っていなかったから、本当に驚いた。
Kさんもご家族も、思いもしない原因にビックリしたらしい。

開頭手術とはいっても切ったのはほんの数センチで、長い時間はかかったものの、手術は無事成功したそうだ。
ずっとロングヘアを後ろで一つに束ねていたKさんは、この手術をきっかけにショートカットになさったようだった。
「夫がね、早く帰ってくれるようになったの。私が入院してる間、息子の学校のことやら、ペットの世話やら、いろいろ一人ですることになって、大変さが分かったみたい。いままでいくらしんどい、って言っても私に任せきりで、全然聞いてくれへんかったのにね。怖かったけど無事に生きて帰ってこれたし、頭痛もなくなったし、夫も協力的になったし、息子も自分のことかなり自分でしてくれるようになって、正に『けがの功名』やったわ」
そういって明るく笑うKさんの眉間にはもう皺はなかった。

という訳で、私の退職なんて吹っ飛んでしまった日だったが、結果的にKさんが助かってホッとした。
Kさん、今は多分七十歳くらいだろう。お元気だといいな。