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呪縛を解く

最近、受けてみたいと思うセッションがあった。しかし結局、申し込まないまま昨日で締め切りになってしまった。
惜しいことをしたと思う反面、どこか安心している自分もいた。
申し込まない言い訳は色々出来る。
もし姑や舅に不測の事態が起こったら、キャンセルしなければならない。いつそんなことが起こってもおかしくない。
仕事が忙しい。練習も欠かせない。身体が疲れている。
しかし、そんなのは言い訳にしか過ぎないことを、『私』は分かり過ぎるほどよく分かっている。
本当の理由は『お金を使うのが怖い』のだ。

無駄遣いはいけないことだ。それは真実だと思う。親にもそう教えられてきた。
物心ついた頃から、一生懸命無駄遣いしないように心がけてきた。すぐに飽きるようなシロモノを買った日には後悔に苛まれたし、欲しいものを買う為にはコツコツとお金を貯めて、それを手に出来る日を心待ちにしていた。
手にした時には喜びでいっぱいになった。
ごく健全な金銭感覚だろう。

だが、この節約精神が行き過ぎると『吝嗇』になってしまう。
吝嗇も好きでやっている分には結構だが、自分を追い詰めるが如くやるのはいけないと思う。
『お金が無くなったら大変だ』『こんなことにお金を使っていては将来困った事になる』という強迫観念に基づいた節約には、悲壮感が漂う。
節約すればお金は貯まる。しかしそこに『喜び』がないと、好ましい結果を招くことにはならないように思う。

私は何故『お金を使うのが怖い』のか。
子供の頃から母が口癖のように『お金がない』『ウチは貧乏』『公務員は会社員より給料が低くて辛い』『子供はお金がかかって大変』というのを、耳にタコが出来るほど聞いてきたからだろう。
母のこれらの言葉には『お金を使ったことにより得られる喜び』というのは微塵も感じられない。きっと私は母の言葉によっていつの間にか、『お金を使うのは怖いこと』『お金を使うのはいけないこと』という強烈なブロックをかけられてしまっているのだろう。

何の折だったか子供の頃、両親が所有している株を売る相談をしているのをたまたま聞いてしまったことがある。
『株』という言葉が聞えず、会話の『売ってしまおうか』『でないと足りないしね』などという部分だけが聞えてきて、私はパニックになってしまった。
どうしよう。ウチは物凄く貧乏なんだ。ウチにある家具や着物を売ってお金にしないと、私達は食べていけないんだ。私達子供にお金がかかるからいけないんだ。私なんて生まれて来なければ良かったのかも知れない。
そう考えると悲しさでいっぱいになり、障子の影でシクシク泣き出してしまったのである。
両親は驚いて、大丈夫、そんなじゃないよ、と笑いながら慰めてくれてホッとしたのだが、今も記憶に残っているエピソードである。

私自身が『私はこの散財をしてもらう価値のある人間である』と思えていないことも『怖い』という感情が起きる一因である。
『私なんかがこんなにお金を使って良いのか』『私には身に過ぎた贅沢ではないか』という自分を必要以上に卑下した感情が、自分の為にお金を使うことになった私に必ず起こるのだ。夫に申し訳ないような、誰かに責められるような、そんな気になってしまう。
金額にもよるが、こういう時
「使っても良い?」
と恐る恐る相談すると、夫は大抵
「なんでオレの許可が要るねん。そんなもん、使え、使え」
と言う。
それでも私は心から安心して散財することが出来ない。
夫の言葉を信用していない訳ではないが、何かしら後ろめたい。
相談できればまだ良い方だ。大抵は相談する前から『こんな無駄遣いをしてはダメだ』と諦めて、ぐっと我慢してしまう。

じゃあ私はどう在ることが出来たら嬉しいかなあ、と考えてみる。
お金を使うとお金は減る。当然なのだけれど、支払うお金は『対価』であって、意味もなく消えていくのではない。
その『対価』によって自分を幸せにすることに、自分で許可を出す。贅沢なんかじゃない、使うことで『私の幸せ』を手に入れるんだ、私を幸せにするために必要な『投資』なんだ、としっかり自認する。
一気には改善できないだろうけど、小さなことから少しずつ『練習』していくしかないだろう。

まだまだ、臆病者である。





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