生命の神秘に

私の母は町育ちで、小さい頃から自然をあまり目にしないで育った。なので結婚して初めて田舎に住む事になり、随分色んな事に面食らったらしい。
私と妹は産まれこそ母と同じ町であるが、育ちは当然その田舎である。父は私達の家がある所よりも更に田舎(祖母は永らく茅葺き屋根の家に住んでいたほど)の出身だから、我が家の中で田舎の色々な事に慣れていないのは母だけだった。

動植物に関する知識のなさにはしょっちゅう驚かされた。
祖父(母の父)は理科の教師だったので、
「おじいちゃん理科の先生やのに、お母さんなんでこんなに何にも知らんの?」
と私達が聞くと祖父は、
「すまんのう。ワシの教育が悪かったんじゃ。よう教えたってくれ」
と言って笑っていた。

異常に虫を怖がる。蝶々がグロテスク、というのだから、それ以下の昆虫がどういう風に思われていたかはたやすく想像出来る。
他にもドンコを見ればメダカと言う(大きさも顔も全く違う)し、おたまじゃくしに足が生えれば「えっ!尻尾が足になんの?」と目を丸くする(そういう訳ではない)し、庭でシマヘビと鉢合わせすれば「アオダイショウや!毒蛇や!」と大騒ぎするし…(いずれも毒は持っていない)。
その度に、父や私達姉妹に訂正されて「えっそうやったん?」とキョトンとするのが常であった。

皮肉な事に妹は『虫めづる姫君』で、家に色んな虫や小動物を持ち込んでは飼っていた。
妹が何か持ち込む度に、母は気持ち悪がって大騒ぎしていた。

一度、妹の持って帰った水筒を洗おうと蓋を開けたら、中からカマキリが出てきて母は腰を抜かさんばかりに驚いた。
学校帰りに捕まえたものの、虫かご代わりになりそうなものが見当たらず、已む無く水筒に入れたらしい。
カマキリは妹が苦労して手に入れた生き餌をモリモリ食べていたが、しばらくして脱走してしまい、妹をがっかりさせ、母をホッとさせた。

おたまじゃくしを靴に入れて持って帰ってきた事もあった。
うやうやしく目の高さまで靴を掲げ、片足靴下裸足で帰ってきた妹を見て、母は何事かと思ったらしい。靴を覗き込んで、またびっくりしていた。
おたまじゃくしを観察しつつ、水をこぼさないように、という妹なりの配慮に満ちた姿勢だったようだ。
こちらは無事にカエルになり、我が家の庭に放たれた。

夏休みのある日、朝のラジオ体操に妹と行って戻ってくると、母がいない。どうしたのかな、と思って台所に行くと、母は庭に下りる上り框の所で膝を抱えてうずくまって、何かをじっと見ていた。
私達に気づくと母は振り返って囁くように、
「羽化したよ。ずっと見てたんや。綺麗やった」
と微笑んだ。
妹が育てていたアゲハ蝶の蛹が割れて、中から成虫が出てきたらしい。洗濯機のそばに虫かごを置いていたので、たまたま洗濯しようと近くにきた母は、羽化の一部始終を見る事になったのだった。
「シワシワの羽がねえ、ゆっくりピーンと伸びていってねえ」
何度も綺麗やった、綺麗やった、と嬉しそうに繰り返した。
珍しく洗濯の手を止めて見ていたようだ。
虫を見て、子供のように喜ぶ母を見るのは初めてで、子供心に不思議な感じがした。

私も妹も、蝶の羽化くらい何度も見た事はあった。が、母には生まれて初めての経験であった。
「じゃあ、蓋取ったろうか。羽乾いたら、飛んで行くやろ」
そう言って妹は虫かごの蓋を取った。

朝食を終えて見てみると、蝶は飛び去っていた。
よく晴れた夏の朝だった。
今でも懐かしい、母娘3人の夏の思い出である。




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