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なにも言えなくなる前に(“ことば”と“意味”をめぐる対話 第六回)

ほんやのほ」の店主、伊川佐保子さんと、「語学塾こもれび」の塾長、志村響さん。二人による“ことば”と“意味”をめぐる対話、第六回目です。
メロンソーダと創作について伊川さんが書いた第五回に対して志村さんは、「創作」という観点からお返事を書き始めます。そして話はいつしか、「アイロニー」のことへ――。
(編集:ことばの本屋Commorébi(こもれび)秋本佑)

僕のお手紙を読んでいただいて伊川さんの世界に砂漠が出現したように、伊川さんのお手紙のおかげで僕の頭の中にはメロンソーダと、増減を繰り返す泡が浮かび上がりました。あの「うさんくささ」が好きな感じ、なんとなくわかります。そして泡が溢れてしまわないよう、見極めが肝心というところも。伊川さんの、他愛もないことに向けられるまなざしがとても好きです。

「創作」の話を続けましょう。
この言葉は「創」って「作」ると書きますが、「つくる」という行為はその対象が何であれ(文章であれ音楽であれ料理であれ)人間が行うことの中でもっともミステリアスなもののようにも思えます。

「創作」はひとりである主体と無我を行き来することのような気がしています。
最初に「一般に創作と呼ばれるようなもの」なんてまどろっこしい言い方をしてしまったのは、私が「創作」という言葉になんだか違和感を持っているからです。「創作」するとき、私は 「創る」ことも「作る」こともしていない気がします。むしろ作為から解放されることのほうが「創作」行為に近いのではないでしょうか。

だからこれを読んで、伊川さんの持っている “違和感” に触れることができ、なんだかホッとしました。そして「創作」は「作為から解放されること」というのにはハッとしました。

それは、「創作」においてもっとも邪魔なものは作ろうとする意志なのかもしれない、と僕も常日頃ぼんやり感じていたことをスパッと言語化してくれていたからです。

「作る」について少し、僕が教えているフランス語の話をさせてください。フランス語は、「直接目的語」と「間接目的語」の違いにとかくうるさい言語です。そしてもちろん「作る」という動詞 ( faire と言います) は直接目的語を取る「他動詞」です。
けれどこの「目的語」というのは普通、すでに在るものです。「窓を拭く」とか「サラダを食べる」とか「本を読む」とか、窓もサラダも本も、行為を及ぼす対象である「目的語」は動作が起こる前から存在しています。しかし "faire" は違います。基本単語であるにも関わらず、動作の前に目的語が存在しない、動作とともに目的語が立ち現れてくる、不思議な動詞です。「ケーキを食べる」という時のケーキと「ケーキを作る」という時のケーキとでは、文法的な違いはなくても存在論的に大きな違いがあります。

僕は「形のあるもの」を作るのがあまり得意ではありません。絵も描けないし、工作も不得手。だから絵でも革細工でもコーヒー豆の焙煎でも自分が食べるトマトの栽培でも、具合的ななにか形のあるものを作っている人に対する並々ならぬ敬意があります。
代わりに、と言うのも変ですが、「形のないもの」を作るのは好きです。文章を書くのもそうだし(いや、文章にも形はあるのですがそれはさておき)、誰に聴かせるでもないですがときどき曲を作ったりもします。

あとで自分で聴いていいな、と思えるのはたいてい、なんでもない過程でできた曲です。適当に指を動かしていたら出た音とか、適当にメロディを口ずさんでいたら出てきた歌詞とか、こういうのはあとで自分で聴いてもあまりイヤになりません。
対して、「作ろう」と意気込んでやるとだいたい間違いなく失敗します。だからプロの作曲家はすごいなと思います。自然に出てくる音と、反自然な納期を突き合わせないといけない。とてもしんどい作業でしょう。
あと、曲をどこで終わらせるかも永遠の謎です。長さもそうだし、音をどこまで足していったらいいかも謎です。ちょうどいいところで切り上げないといけないのですが、内容の膨らみに一応の限度がある、かつ単線的な文章とは違って、平面的、立体的にどこまでも膨らんでしまう音楽で上手く切り上げることは、少なくとも僕にはできません。もしかすると作曲家(そして編曲家)は、メロンソーダを注ぐ技術に長けているのかもしれないですね。

「文章」に話を戻します。
からっぽな文章がつまらないのと同じくらい、中身しかない文章も面白くない。僕はついつい、「言いたいこと」が先行すると、スマホの画面に保護シートを貼るときみたいに、気泡という気泡を追い出してそこに内容を詰め込もうとしてしまいます。けれどこれは音楽で言えば、和音とベースとドラムがかろうじて鳴っているだけのような、物寂しい連なりです。

「作為から解放される」というのはだから、僕にとっては大いなる目標であり、憧れです。

ところで、千葉雅也さんが『勉強の哲学』の中で、「アイロニー」という言葉で表している事柄があります。それはなにか問題を俯瞰して、さらにそれを俯瞰する、あるいは掘り下げられるところまで掘り下げる。そういった終わりのない検証、追及のことです。

「そもそも不倫は悪なのか?」という問いについて話し始めるなら、こんどは「悪とはそもそも何なのか?」、「不倫とはどういうことか?」、「人を愛するとはどういうことか?」など、さらに高次の(メタな)根拠づけの問いが、連鎖的に引き起こされるでしょう。
そこで、たとえば「悪とは、人を悲しませることである」と誰かが主張したら、こんどは、「人の悲しみは、どう根拠づけられるのか?」という問いが出てきて、さらに……という具合で、根拠づけの連鎖は止まらない。(p.83)

これはなんだか、前髪を切る作業に似ています。僕はよく自分で前髪を切ります。思い描くゴールはある。だんだんそれに近づいていく。けれど厄介なことに、髪は平面ではありません。髪の毛という “線” の集合体、ということは、少し頭を揺らせば平面としての様相は変わります。だから思い描いていた画像(平面)に一致する日は来ないのです。
そこで、ある瞬間で「よし、ここまで!」とはっきりと見切りをつける必要があります。はさみを手放して、テーブルに向かって何かを食べ始めたり部屋に戻って服を着替えたりしなきゃいけない時が来る。(これを千葉さんは「ユーモア」という言葉を使ってさらに定式化しています。もしも未読でしたら、最近文庫版も出ましたのでぜひ読んでみてください)

この「ユーモアへの転換」、つまりちょうどいいところで切り上げるのが苦手な人は、おとなしく美容院で切ってもらう(他者の絶対性に頼る)、あるいは切るのを諦めて、前髪を伸ばし放題にするほかありません。
このように、アイロニーには最終的に何も言えなくなるという蟻地獄が待ち構えています。これが意味を突き詰めることの怖さです。『勉強の哲学』の「結論」にもこうあります。

アイロニーは過剰になると、絶対的に真なる根拠を得たいという欲望になる。それは実現不可能な欲望である。アイロニストは、言語の環境依存性 ——特定の環境における言葉の意味、すなわち言葉の用法は、たんにその環境において「そうだからそう」というだけで、絶対的に根拠づけられているのではない—— を嫌い、極限的には、言語の破棄を目指す。(p.217)

これは音楽についても同じことが言えるでしょう。アイロニストは一つ一つの音についてそれがそこに組み込まれていなければならない理由を探し、けれど実際にはいくら探してもそんなものは見つからないのだから、ついには音を奏でることを放棄します。

僕は、自分がよくも悪くも「アイロニスト」だという自覚があります。だから蟻地獄にハマらないように適当に見切りをつけたり、『勉強の哲学』に倣って「ユーモア」を取り入れてみたりといったことを意識的にするようにしています。

けれど最近ようやく、そんな自分にいちばん適した「創作」の形がなにか、わかったような気がするのです。それは「翻訳」です。あるテキストを別の言語で創り直す。「なぜ元のテキストではこの単語が使われているのか?」というアイロニストの沼は、「作者がそれを使ったから」という “究極の根拠” によって埋め立てられます。だから言語を放棄することなく、思う存分アイロニーを発揮できる。
と同時に、「翻訳」は “作為から解放されやすい” 作業でもあります。あるいは作為など最初からないとも言えるかもしれません。さらには、翻訳は目的語がすでに存在する「作る faire」であるとも。創作にはなかった “目的語” が翻訳にはあり、創作にはあった “作為” が翻訳にはないのです。

まだ、あまり大きな声では言いたくないのですが(言っちゃった)、実は最近とある作品の翻訳をしています。誰に頼まれたわけでもないですが、勝手に。そんなに長い物語ではないけれど、僕が翻訳したことのある文章の中ではいちばん長い物語です。

最近は本屋をお休みしているので、仕事の合間にはこんな文章ばかり書いています。意味のほとんどない、ただ書くための文章です(書いていて、こんなに無意味なことばかりで「"ことば"と"意味"をめぐる対話」になっているのだろうか、心配になってきました)。それは大げさにいえば、世界にだれもいなくなっても、つまり読み手がひとりもいなくても書き続けるだろうと思うような文章です。

僕も、読み手がひとりもいなくても、翻訳をし続けるだろうと思います。


●志村響(しむら・ひびき)
1994年東京生。「語学塾こもれび」塾長。まぁ無理にフランス語やらなくてもいいのでは?が口癖になりつつあるフランス語教師。言葉と音と服が好き。人の話を聞いていないように見えるときは相手の声音を聴いているか、月にいる (être dans la lune) かのどちらかです。
●伊川佐保子(いかわ・さほこ)
1992年東京生。本屋「ほんやのほ」店主、会社員もしている。言葉と本と人が好き。手紙をポストに投函するのが苦手。飛び立つ胸に書店ひとつも止し、晴れたが幸いへ行かせて「世界平和」いざ語れば、書物と瓶で四時に眠った人(とひたつむねにしよてんひとつもよしはれたかさいわいへいかせてせかいへいわいさかたれはしよもつとひんてよしにねむつたひと)。

<これまでのお手紙>
第一回 伊川佐保子 「言葉の抜け穴」(2019/11/20)
第二回 志村響 「ワイン風呂と風のベンチ」(2019/11/29)
第三回 伊川佐保子 「とりとめもない未発見」(2019/12/20)
第四回 志村響 「一人で、砂漠」(2020/1/9)
第五回 伊川佐保子 「メロンソーダに慣れている人」(2020/2/23)

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