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日常採集標本

非日常にあこがれていた私が、日常を好きになった物語でもあります。
じっくり読めば10分程かかりますが、日常採集標本という造語にピンときた方は、読んでいただければうれしいです。


パンダ事変

むかし、動物園にいったときのことだった。パンダを一目みようと、ながい列にならんでいた。
こんなに暑いのにあと30分くらいはかかりそうだなぁ、せめて建物のなかに入りたいんだけど‥‥と、待っているとき、事件がおこった。

「いたよ〜! いた、いた〜!」と、子どもの元気な声。

まだパンダは見えないはずのその場所から、パンダが見えたんだろうか? いや、建物の外から見えるはずがない。
いったい、なにがいたんだろう? と、その声に一気にひきつけられた。

その声がきこえてきた方に目をむけると、その子はどうやら、しゃがんでいるようだった。
しゃがんで、なにをみつけたんだろう?
あの弾むような声が耳にのこっていて、パンダよりもそっちの方が見たくなってきている自分がいた。

その子はさらに、みつけたものを、指先でつまんでいるようだ。
そして、おかあさんらしきひとに、うれしそうに見せている。

「みて、みて〜」
「にがしてあげようね」

あっ、そうか!
あの子がみつけたものは●●だったんだ!!

その正体がわかった瞬間、じぶんのなかで衝撃がはしった。
そして、じんわり、なんとも言えないきもちにおそわれることになった。

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●●は、アリだった🐜

貴重な休みの日に、時間もお金も労力もかけて動物園に来て、パンダの列にイライラしている私。
いつでも、どこにでも、そこらへんにいるアリをみつけて、パンダの列なんて気にせずよろこんでいる子ども。

私とあの子、いったい、どっちがしあわせなんだろう?
大人のくせに不自由だな、つまらないな、と思わずにはいられなかった。

だいたいの大人は家事や仕事など日常のことをがんばったご褒美に、非日常のお出かけや旅行などがあるような気がする。
だからというわけではないが、日常生活はつまらない傾向がある。
でも、パンダというご褒美を得るために待つ時間には、日常のつまらなさが入りこんでいる。

だけど、アリをみつけたあの子は、パンダを待つという退屈な時間を過ごしていなかった。
きっと、非日常ではなく、いつものじぶんらしい日常の時間を過ごしていたからこそ、アリを発見した。
もちろん、パンダを見たときの感動もすごいけど、アリの発見もおなじくらいうれしかったんだと思う。

そんなあの子を、うらやましく思うじぶんがいた。
パンダもアリも、日常も非日常も、じぶんや大人たちが勝手に価値のラベルを貼っているだけだよな‥‥そんなことに気づかされた衝撃的な大事件を「パンダ事変」と命名した。


日常の速度

あれからも、パンダ事変のことはトラウマのように、ことあるごとに思い出していた。
たとえば旅行しているときのような、ワクワクする日常をどうやったら過ごすことができるんだろう?みたいなことを、ふとしたときに考えるようになった。
それと同時に、お前はつまんない大人だなぁと、自分にため息をついてしまっていた。

いくら考えても、日常生活のなかに非日常をとりいれるような貧弱な発想しか出てこなかった。たとえば、通勤経路を変えてみるとか、朝活や仕事後にどこか行ってみるとか‥‥。
アリをみつけたあの子のような日常はそんなんじゃないってわかってるんだけど、どんな日常をおくればよいのか見当もつかない日々を過ごしていた。

そんなある日のこと、朝から大雨だった。
ふだん自転車通勤の私にとって、大雨ほど嫌なことはない。カッパを着てぬれながら自転車に乗るのはいい気がしない。自転車だと10分かからないのに、歩けば30分かかる。別にバスに乗ってもいいんだけど、待つのがイヤ。

その日は時間に余裕があったので、長靴をはいて、傘をさして、ゆっくり歩いて出勤することにした。1時間くらいかかってもいいくらいのきもちで。

そういえば、家の玄関をでたときにいつもなにが見えてたんだっけ?
あの角でいつもまがるけど、その角にはなにがあったっけ?
そもそも、どんな景色のなかを通勤してたんだっけ?

家を出る前にそんなことを思いながら、いつもの自転車通勤とおなじコースを歩く。

よく見ると、雨にぬれたマンホールはきれいでこんな模様をしてたんだ、とか。
見上げてみると、電柱にはいろんなオブジェが電線とつながっているんだな、とか。
立ち止まってみると、あそこのビルの壁の模様っていうかヒビがうつくしい、とか。
民家のブロック塀にも、いろんな種類があったんだ、とか。
赤い三角コーンも、新参者から年季の入ったベテランまでいるよな、とか。
カーブミラーにうつっている景色は、なんだかちがう街みたいだな、とか。

次から次へと、見るものすべてが、こんなにおもしろいカタチやモノだったんだと驚くばかりだった。
おおげさに言うと、いつも通り過ぎているだけの道が、知らない国の知らない街にかわってしまったような感覚だった。
知らない街なんだけど、知っているモノがたくさんあって、それがおもしろく、うつくしく見えてくるのが不思議だった。

これってもしかして、アリをみつけたあの子の感覚にちかいんじゃないか!? と、ドキドキしながら大雨のなか、ときどき立ち止まり、ゆっくりゆっくり歩いていった。

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景色がよいところのドライブは、ゆっくり車を走らせる。
そうじゃないと、景色が見えないから。

時速40キロと80キロとでは見えてくる景色の量がまったくちがう。
速ければ速いほど目的地にはすぐに到着する。
だけど、速ければ速いほど、目的地以外のものが見えなくなってくる。
自転車と徒歩のちがいだって、そうだ。
自転車は止まるとたおれてしまうけど、徒歩はいつでもどこでも立ち止まることができる。
移動しているときに見える景色の量と、立ち止まっているときの情報量も格段にちがう。

あのパンダを待っている時間、私はパンダという目的地しか見えてなかった。渋滞している高速道路にいるのに、速さを求めていたんだと思う。無意識のうちに、見えない車にのりこんでいた。
だけど、あの子は車になんか乗らずに、立ち止まって景色をゆっくり見渡していた。
だから、アリを発見することができた。

乗り物から降りて、じぶんの足で歩くこと、立ち止まること。
じぶんの日常はその速度じゃないと、見つからないのかもしれない。
そんな日常の速度がわかったのは、きらいな朝の大雨のおかげだった。


日常採集標本箱

パンダ事変を経て、日常の速度がわかったとき、もうこれしかない! という確信がじぶんのなかに芽生えた。

ちょうど、学生時代からお世話になっているギャラリーsensenci(センセンチ)のオーナーご夫妻から出展のお誘いがあって、ノープランなのにオッケーと返事をしていた案件があった。
ずっと、どんな企画や展示をするのか悩んでいたんだけど、アリをみつけたあの子とじぶんを重ねあわせながら、みんなといっしょにたのしめるようなアイデアが、突然うかんできた。

子どもの頃、虫とりあみ片手に昆虫採集をしたことがある人は多いと思う。動物園のあの子も、ひろい意味で昆虫採集をしていたということになる。
じぶんの手の届く範囲で虫を発見してつかまえるのとおなじように、じぶんの日常生活のなかで発見したモノやカタチをつかまえたいと思ったことはないだろうか?
そして、つかまえたモノやカタチを標本箱につめこんでコレクションできたらいいなぁ。
さらに、みんなのコレクションを見せあいっこできたら、なんてステキなんだろうと。
そんなアイデアが、つぎつぎにうかんできた。

そんな標本箱は、見たことも聞いたこともない。
だけど、あたまのなかでは、どうしたらいいのかわかっていた。
あとは、この企画のなまえを決める必要があったけど、それもすぐに決まった。
日常を採集して標本箱につめこむんだから、「日常採集標本箱」しかないと思った。

ちなみに出展先というのが、「遠州横須賀街道ちっちゃな文化展(静岡県掛川市)」という、全国から何十人もの作家が訪れ、歴史ある街並みのなかに作品などを展示しながら街の人や訪れた方々と交流を深めるイベントだった。

私がつくった日常採集標本箱を展示するだけではおもしろくないので、街の人たちといっしょに事前に、会場となる遠州横須賀街道を舞台にワークショップをしようと思った。

ちっちゃな文化展を主催されている遠州横須賀倶楽部さんには、ちっちゃな文化展20周年記念事業として助成していただくことができた。会場は地元の掛川市立大須賀図書館が提供してくださった。

おおくの方のご協力やアドバイスをいただきながら、あっという間にかたちになっていったのがうれしかった。

そして、「街の標本箱づくり」と題したワークショップは、こんな流れでおこなった。

①参加者のみなさん一人ひとりが、街を歩き日常採集(カメラで撮影)する

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②標本づくり(現像して切り抜き)をする

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③できた標本を虫ピンでとめて、オリジナルの標本箱をつくる

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④標本箱を見せあいっこする

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そして、ちっちゃな文化展当日は、ワークショプに参加された皆さんと私が日常採集した標本を、廃業された材木店さんの資材置き場に展示させていただいた。

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ご来場いただいた方には、巨大な標本箱に入っていただく体験をしていただくというコンセプトで、ライト片手に巨大な暗闇の標本箱のなかを照らしながら鑑賞していただくスタイルをとった。

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結果、3日間の会期中およそ3000人を超える方々に日常採集標本箱をたのしんでいただくことができた。

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地元の中学生やお世話になった人たちからギャラリー関係者や友人まで、おおくの方々のご協力やご好意に助けられ、いっしょに日常採集標本箱の企画をすすめられたがなによりうれしかった。

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そんな事前のワークショップからちっちゃな文化展当日までの様子をまとめた「記憶集」と、実際に展示した標本をまとめた「標本集」を、いま作成している。

日常採集標本箱の企画は、街と街にかかわる人たちの記憶をかたちにするプロジェクトとも言うことができる。
そんな記憶と標本を保管するのにもっともふさわしい場所を考えたときに、もうすでに答えは決まっていた。

街の記憶を、街の図書館へ。

「記憶集」と「標本集」を大須賀図書館に寄贈させていただきたいことを相談すると、ご快諾いただけた。
ちっちゃな文化展がおわっても、日常採集標本箱のワークショップや展示がおわっても、図書館に行けばいつでも手にとって、読んだり借りたりできることになる。

そしてこの秋も、ちっちゃな文化展で日常採集をする「街を身につけるワークショップ」をおこなうことが決まっている。

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日常採集標本箱から、日常採集標本バッジになって、日常採集はつづく。


こんな社会だったらいいな

そもそも、仕事でもないのに、時間もお金も労力もかけて日常採集標本箱をするのはどうしてなんだろう? ここまで書いているなかで、そんな疑問が湧いてきた。
誰もがみんな、仕事でもないのに、時間もお金も労力もかけてやっていることがあると思う。
そんな数あるなかの、たったひとつに過ぎないけれど、じぶんなりに整理しながら考えてみたい。

そうそう、きっかけはアリのあの子のようになりたいだった。
そして大雨の日に、いつもの日常に埋もれているおもしろさ発見する。
そこから、ちっちゃな文化展での出展企画にもつながっていったんだった。

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でも、そもそもアリのあの子に興味をひかれのは、なぜなんだろう?
日常におもしろさを見出したのは、なぜなんだろう?
さらに、そのことについて出展しようと思ったのは、なぜなんだろう?
そのあたりを深掘りする必要がありそうだ。

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ふりかえってみると、いくつかの大きな出来事やターニングポイントがあるような気がする。

中学生のときに阪神淡路大震災がおこり、街や風景がかわっていく姿をずっと見てきた。
それが関係あるのかないのかわからないけど、大学では哲学を学び、いろんなジャンルのボランティア活動をつづけた。そんなときに現代アートにも出会う。
学生時代に、いまやっていることの種は、だいたい蒔かれていたのかもしれない。

そして、就職活動をまったくしないまま、ご縁があって児童館や障害児者支援施設などで、子どもや障害のある人とかかわる仕事をつづけている。

多くの子どもや障害のある人たちに出会っていくなかで、彼・彼女たちが生きている世界と私の世界は、おなじだけどちがうし、ちがうけどおなじ、だった。

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アリをみつけたあの子もそうだ。おなじ場所にいるのに、あの子の方がステキな世界にいるようだった。
発達障害や自閉症という障害名がついている人たちだってそうだ。はるか遠くにある好きなものをみつけたり、私にはわからないなにかを確実にとらえていると感じるときがたくさんあった。
ほとんど視力のなく、自分で食べることも動くことも難しかったあの子だってそうだ。見えてないはずなのによく見ていて、表情や全身でいろんなことを伝えてくれていた。

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もちろん、彼・彼女がこの社会のなかで生きづらさを感じていることもたしかだし、それらを解消していくことが社会福祉や児童福祉の役割でもあると思う。
だけど、彼・彼女らは、この世界をじぶんなりにとらえておもしろがっていることもたしかにあって、そこをとらえたりシェアしたいとずっと思っているんだった。

おなじだけどちがう、ちがうけどおなじ世界で生きている者同士が、お互いの世界っていいね!と、わかちあえるような社会だったらいいのにな!!  という想いを抱いて、日常採集標本箱がうまれたんだった。

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おもっているだけではなにもかわらないから、日常採集標本箱をこれからもつづけていくという決意表明をここに記そうと思う。

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*「日常採集標本箱」にかんするワークショップ・展示等の企画やお問い合わせは、コチラhdkzkony@gmail.comへおねがいします。


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