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野うさぎのロワイヤルと、シェフのこと。

これは2000年を過ぎた頃の話。恵比寿にとても良いフレンチレストランがありました。いわゆるグランメゾンだったけれど、当時はまだランチタイムなら時々行くことができるくらいの収入もあって。その店で、冬の間限定で出していたのが、野うさぎのロワイヤル。この料理、東京ではめったにお目にかかれない料理でもある。なぜって、新鮮な野うさぎが必要だから、なかなか口にすることのできない料理なのです。それを、その店は出していたのです。

野うさぎのロワイヤルは、フランス料理の中でも古典的な料理で、ルイ14世も食べたと言われる料理。野うさぎの肉で野うさぎのミンチとフォアグラ、トリュフを包み込む。ソースには野うさぎの血と、たっぷりの赤ワインが使われる。ひと皿の料理ができあがるまでに、2週間ほどの時間がかかるというから驚きです。その間、調理場は野うさぎの血の匂いで満たされるとシェフが話していたのを、今でもよく覚えています。

運良く、その店で野うさぎのロワイヤルを食べる機会に恵まれたことがあるのです。シェフは当時のフレンチレストランの料理人の中では、とりわけ気難しく、ワインを頼まない客にはこの料理は出さないと決めていました。だからもちろん、ワインを頼みました。昼だろうとなんだろうと、お構いなしなのは、普段からでしたしね。その時は確か、若々しさの残るヴォルネイを選んだように記憶しています。

香ばしく皮目を焼いた白身魚のポワレの後に運ばれてきた、野うさぎのロワイヤル。残念ながら写真は残っていません。なぜならシェフいわく「料理は写真に撮るものではなく、食べるものだから」と、料理は撮影禁止だったのです。ネットで似た写真はないか探してみたけれど、あのシェフが作るそれと似ているものはなくて、どこの店のものも、スライスされたものに削ったトリュフが上品にのせてある。そんなに上品なスタイルの盛り付けではなく、もっと無骨な感じの盛り付けでした。お皿の上に、ドン、とソースをまとった塊があるような。まあるい大きなハンバーグのような塊。それに褐色のソースがたっぷりかかっていました。見た目はすごくシンプルなのです。

そっとナイフを入れるとすんなりと刃が入って、ふんわりと柔らかく、スッと切れる。ひとくち口に運ぶと、ソースと、やわらかな野うさぎのお肉と、フォアグラなどが、渾然一体となって口の中でほろりとほどける。しっかりとした味わいのソース。濃厚な味わいの何かが、強い余韻を残して口の中から消え、その余韻がワインを呼ぶ。ピノ・ノワールの軽い酸味が、口の中を綺麗に洗い流し、余韻を残す。その繰り返し。ワインがないと、食べられない料理だと思いました。シェフの言うことは、間違いがなかったのです。

あまりの美味しさに、手が止まる。無骨なのに美しい料理の姿を、しげしげと眺める。十数秒、そんなことが続いたその時、横に来たシェフが耳打ちしました。「○○さんは、10分で食べきったよ。」そう。フォアグラやバターをたっぷり使った料理だから、ぼんやり食べていると、みるみるうちに固まって、美味しさが損なわれてしまうのです。

その言葉にハッとして、また黙々と料理とワインを交互に口へと運ぶ。とろりととろける舌触りの料理とワインが織りなす、甘美でエロティックな時間。ひと皿の料理がなくなる頃には、ワインもすっかり飲み干していました。

そのシェフはだいぶ前にお店を畳んでしまい、大好きな釣り三昧の日々を送っていることを、時々耳にします。シェフの料理の魅力を今書こうとしたけれど、なんとなく言葉が足りない気がして、消してしまいました。塩の使い方が絶妙に上手いシェフでした。野うさぎのロワイヤルをもう一度とは言わないけれど、シェフの料理がまた食べたい。その夢が叶う日は、来るのかなあ……。

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