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呪いの言葉と心の鍵

ストレスに弱かったり、メンタルが強くなかったり、何らかの病気を抱えている人ならわかるかもしれないのだけれど、誰かの何気ないひとことが、自分にとっての呪いになっているケースがよくあります。
機能不全家族の中で育ち、運動が苦手なことでクラスの子から心ない言葉をかけられたり、塾や習い事に通えば、そこで先生から言われたことが心にまとわりついてしまったり、そうでなくても屈折した人生を歩み始めているのに、屈折しすぎて元の位置に戻っちゃうくらいにはいろいろなことがありました。

今は亡き大好きだった祖母も、毎日の暮らしの中で、夕食後にお茶を飲みながら話をしていると、私が幼い頃預けられていた父方の祖母の家で、私がどんな扱いを受けてきたのか、帰ってきたときはどうだったのかという話をすることや、母が2番目の父と結婚するときにすごく反対したことや、母が金銭にルーズなことをたくさん聞かされたのですが、それはある種のセカンドレイプ的なものでもあり、「こんなひどいことをされてあの人はひどい人だ」とか「だから結婚に反対したのに」とかいろいろ聞かされて、自分の中に「こういう大人になってはいけない」的なことを徹底的に刷り込む時間になっていたと、今振り返ると思います。

こうなってはいけない、という話はある意味常識的な話のように聞こえますが、一見いいことのように見えるこうしたことが、自由な心を縛り付けてしまう呪いになっていることが、結構あるんだなあと気がついたのは、もう人生も半ばを過ぎた最近になってからのことでした。
幼少期から思春期にかけてのほんの何年かの間にかけられる言葉の数々が、自分をがんじがらめにしてしまうんだと痛感しています。

今でも忘れられないのは、大好きだった小学校の音楽の先生のひとことです。
T先生はとても明るく楽しい人で、音楽の楽しさを実感させてくれる素晴らしい先生でもありました。
幼い頃から音楽が大好きだった私は、学校でのクラブ活動は音楽クラブに入り、楽器の合奏や合唱などに参加していました。
でも、合奏で割り振られた楽器の楽譜を見ながら、高学年のお姉さんたちに混じって演奏しようにも、子どもの私にはとても難しく、今風に言えばbpmも速い曲だったりして、全然歯が立たなかったのを思い出します。
そういうちょっと苦い思い出もありつつ、T先生のことは大好きで、卒業前にクラスメイトに書いてもらうサイン帳をT先生にも書いてもらうことにしました。
T先生が書いた卒業生である私に向けたメッセージの中に、こんな事が書いてありました。
「あなたはあともう少し頑張れば達成できることを、その手前で諦めてしまう。それはもったいないこと。もう少し頑張れるようになるといいね」
それは自分にとってとても衝撃的な言葉でした。
私自身はちゃんと頑張っているつもりだったし、出来なかったのは実力不足だからだろうと思っていました。
「あなたはもっと頑張れるはずだから全力を出し切って」という言葉を、全力で頑張っている私に、卒業のメッセージとして送ったT先生のことを、メンタルに不具合のある大人になった今、私は「呪いにかけた人」だと思っています。
今でも好きな先生であることに変わりはないのですが、頑張りが足りないというその言葉が、大好きだった先生の口から出たことで、私は努力が足りない人間なんだと思うようになり、やがて物事に取り組むときに過剰に頑張りすぎるようになっていきました。

T先生が言ってた。
私は頑張りが足りないって。
きっともっと頑張れるはず。
まだまだなんとかなるはず。

自分で自分に呪いをかけるのに、十分すぎる言葉だったなあと今は思うのです。
でも、子どもにかける言葉って難しいと思います。
私のように強いショックを受けて、その後それを頑なに守ろうとする子どももいるだろうし、もう少し肩の力を抜いていいんだよというと、いいかげんになってしまう子どももいるかもしれません。
けれども、「あなたにはもっと大きな可能性があるよ、それを秘めているんだよ」ということを、呪いの言葉にならないように伝えるのは、とても大事なことなんだなあと思います。

そんな呪いを解くのには、やはり自分だけでどうにかしようとするのは難しく、誰かしらの手を借りることになるんだなあといつも思います。
例えば、夏の終わりにオシロイバナの種をたくさん摘んで持って帰ると、母から「なんでそんな物拾ってくるの!捨ててらっしゃい!」とひどく怒られたことをある人に言ったら、「そんなに怒らなくたっていいのにね」と言われて、怒られることが当たり前だと思っていた前提が崩れたことがありました。
自分がごく普通のことだと思っていることが、実はそうではなく、自分の周囲の人達がちょっと異常だった、というのは機能不全家族に育つ人にとってはよくあることだと思います。
さまざまな人と関わる中で、呪いを解く心の鍵を持つ人が突然現れるのです。
ときにはそれを悪用して、ミスリードをさせる人も現れますが、そうしたことも含めて、気づくためのアンテナを張っておきたいものです。
ちなみに、私の頑張りグセは気がついているのになかなか治りません。
あれは呪いの言葉だったんだと気づいても、習慣になってしまうと年齢的にも難しいのが哀しいところ。
頑張りすぎている人がどうか早いうちにその呪いから開放されますように。
気がつくだけできっと、少し心がやわらかくなる気がします。

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