見出し画像

天国のドアたたく

くるりの大好きな曲のひとつに、こんな歌詞がある。フジファブリックの志村が急逝したとき、岸田がライブで歌ったというこの曲は、しばらくYouTubeに違法アップロードされていた(たぶん)がとうとう削除されて久しいように思う。そのときの岸田の震える声が今でも脳内を時々リフレインする。

天国のドア、という概念は時々目にするが、どんなドアなのだろうと考えたりすることがあった。それが実感を伴ってこれだ、と思ったのは、祖母の葬儀のときに行った千葉市斎場の火葬場のドアだった。火葬場の設備にもよるだろうが、千葉市斎場は比較的新しく、火葬される炉に入るドアの空間と、それを展示物のように眺めるアクリル板に隔たれた空間がある。わたしはアクリル板越しに祖母を見送ったのだが、火葬へ向かう炉のドアというか扉がまさしくそれだと思った。茶色の、自動で静かに閉まるそれ。炉をくぐるまでは、眠っているように見えた、触れることのできる祖母が、そこをくぐると肉体を失って小さな白い骨になって、なんだか知らない物体になってしまう。取り返しのつかない別れの、この世とあの世の隔たりだと思ったことを今でも鮮明に思い出す。

祖母は糖尿由来の心筋梗塞でかかりつけから救急搬送され、緊急手術となった。心臓にカテーテルを入れ、糖尿管理をしたりして半年ほど入院し、翌年の正月は一時帰宅できるか…?というところまできたが、結局年末頃から肺に水がたまったりして呼吸がうまくできなくなり、モルヒネも使用して次第に眠る時間がふえた。術後すぐは軽口を叩く元気もあったが、それも聞こえなくなり、あんなに好きだった甘いものも食べられなくなるのを見るのは本当に寂しかった。毎週末、ほぼお見舞いに行って足の爪を切ったり、マッサージしたりしたが、密かに折っていた千羽鶴はついぞ間に合わなかったので、棺の中にみんなで入れた。あの鶴たちは、祖母を天国へ連れて行ってくれただろうか。

自分のほうが辛いのに、お見舞いの帰りに東京まで帰るわたしに気をつけなよといつも言ってくれたこと。入院した2ヶ月後に結婚式があったのに出席できなくて、それでもお祝いの席だから日舞を踊るんだとぼんやりした意識の中で言っていたこと。嬉しそうに食べていたハーゲンダッツのバニラも食べ切れなくなり病室のゴミ箱にそれを捨てて以来、わたしはハーゲンダッツのバニラが食べられなくなったこと。もうそろそろ危ないからと親族で揃って冬の日にお見舞いに行ったとき、ラウンジから富士山が見えて憎たらしいほど輝かしかったこと。亡くなった連絡を受けて祖父母宅に行って顔を見たとき、本当は生きてるんじゃないのかと思うくらい穏やかに眠っていたこと。糖尿なのに美味しいものが食べたくて駄々をこねていたこと。わたしが腎盂炎になったとき季節外れのスイカを買ってきてくれたこと。浴衣を着せてくれて、お祭りに一緒に行った帰り道、控えめな花火を見たこと。

祖母からは、とても大切にしてもらったように思う。たくさんの思い出が、いまでも寂しさと一緒に蘇ることがある。天国のドア、わたしがいつかくぐったら、また会えるだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?