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なぜ勉強するのか 山中りんたそ

 毎週、エッセイを書くようになってから2ヶ月近くが経過した。すでに10作品を超える量が制作されているが、少し山中りんたその文章のクセがでてきてしまっている。そこで、今日はいつもなら書かないような真面目なテーマで書き進めていこうと思う。

 今回、私が選んだテーマは「勉強をなぜするのか」という点に対して、私自身の個人的な感想をお答えするというものである。これは、年度はじめを控えているこの時期(つまり年度末)に自分の考えを整理しておくことで、新年度になってから聞かれるであろう「なんで勉強しなくちゃいけないんですか。」や「この勉強は将来、意味あるんですか。」に対してわかりやすく答えられるようにしておこう、という作戦だ。実際、社会科の教師をしているとこれがよく問われるのだ。特に歴史とか。子どもたちからすれば、昔のことを勉強して何になるのかということらしい(ドラマ性のおもしろさは感じるようだが)。

 先に断っておくが、希望する進学先に進学するためや将来の仕事につながるからなどのキャリア形成に役立てようとする視点は私には皆無である。もちろん、そのような考え方をお持ちの方を否定するわけではないのだが、そうではない視点から切り込んでいきたい。

 さて、ただでさえ面白くないテーマなので、そろそろ本旨の主張に入ろう。

 私が考える勉強をする意味とは、

「自分という存在を社会と相対化することで、その存在のちっぽけさを再認識することができる」

ということにあると思っている。

 そもそも、学問全般的に言われることだが、勉強して得られることは”自分がなにも知らない”という感覚である。今から2000年以上前のギリシア人がこのことを、「無知の知」と名付けたくらいには学問の基本だ。そして、この「俺って何も知らないんだ」の感覚が楽しいのである。

 考えてみてもほしい。勉強をしている人は自分の知識やそれに関わる認識が”間違っているかも”と思いながら常に生活をしているため、何かミスをしたりトラブルが起こっても改善の余地が残されている。経験的に成長のチャンスであることを感じ取る。しかし、勉強をしていない人は、今の知識で足りていると認識しているがために、何かミスやトラブルが起こっても全知全能であるはずの自分に理由があるとは考えない。全知全能であるはずの彼がそんなことに巻き込まれるはずがないからだ。環境のせいにするのは簡単だが、それを改善するのはかなり難しく、諦める以外の選択肢をとることができない。また、もし自分に理由があると考えた場合でも、それは自分の限界を突きつけられただけに過ぎず、改善の余地がない状況に絶望する他ないだろう。そして、他人のせいにしてカリカリし、他のこともうまくいかなくなり、、、の負のスパイラルに突入してしまう。

 これが「なぜ勉強するのか」に対しての大きな答えの1つ。

 じゃあ、なぜその中でも私は”社会科”に価値を感じているのか。同じことの繰り返しになってしまうような気もするが、やはりここも「自分の存在のちっぽけさを感じることで、生きるのが楽になるから」という答えが思い浮かぶ。

 例えば地理の学習。この学習を通して、地球の裏にも国があること、時差があって生きている時間が違うこと、国内も国外も地域によって、自然環境か違うこと、食べものが違うこと、産業構造が違うこと、文化が違うこと、様々な発見がある。私はそれらを知るたびに、自分の生活が当たり前ではないことを知り、普段は気が付かない小さな幸せを発見できるようになるのである。「今日は寒いけど、亜寒帯の地域に住む人のこと考えたらあったけえ方だな、ラッキー」とか、「水道水が飲めたり、家の風呂で水を無限に使える(水道代はかかるが)のって、めっちゃ幸せだな」とか。悩みが小さくなり、幸せが再認識される感じが心地よい。また、「ブラジルに住む人にとって俺が失敗しようがミスしようがどうでもいいな。」というマインドを得られるのも、グッドポイントである。

 さらに、歴史の学習。地理の学びが場所の比較だったのに対し、歴史は時間の比較である。この学びも、今の当たり前が当たり前ではないことに気が付かせてくれる。縄文時代や遊牧民の生活と比較すれば、定住生活は当たり前ではないし、第二次世界大戦前の社会と比較すれば普通選挙も当たり前ではない。「無知の知」とソクラテスが言った時代の当たり前は男性同士の恋人がいることだし、恋人や奥さんが何人もいるのは当たり前、国民国家化された近代社会では成年男子は戦争に行くことも当たり前だった。

 これらのことを学べば学ぶほど、自分の悩みがどうでもよくなる。西部戦線の前線で戦う兵士だったかもしれないと考えると、自分のふがいなさが強調され、もっと頑張らなくちゃと思うようになる。

 以上の理由が、私が考える「勉強をする意味」である。

 ここまで、読んでくれた人はいるだろうか。読んでくれてありがとう。

 子どもたちが、学ぶことの理由を探してこの文章に辿り着いてくれるよう願っている。

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