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「こと」は「ところ」なのか?

 はじめましての人も、
 前から知ってる方も、
 ごきげんよう。

 偏光です。

 ところで冒頭の「ごきげんよう」ですが、

 男性に対しても女性に対しても、
 朝昼晩どの時間に読まれたとしても、
 違和感だけはない挨拶、として、
 私は採用しております。

(文字数:約1800文字)



道長大河に出るってよ

  今年の大河ドラマは紫式部を主人公にして、
  藤原道長も登場するという事で、
  これは新しい道長像が示される予感。

  私が長年道長に対して抱いてきた解釈など、
  他にも誰か思い付く方くらいいて、
  偶然にも酷似した解釈が採用され、
  以降はその道長像がスタンダードに、
  なってしまわないとも限らないので、

  初回放送日よりも先に、
  この記事を書いておく事で、
  大河ドラマから借用した解釈ではない事の、
  証拠にしようと思ったわけです。

  取り立てて古典に興味が無い方でも、
  誰もがなぜか知っているどころか、
  ある程度は諳んじ切れるあの和歌。

  この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の
         欠けたることも無しと思へば

  に対する解釈です。


後ろ頭からツッコミたい

  この和歌には大体の場合、
  以下のような現代語訳が付けられ、

この世こそ実に私の世であろう
(今見上げているこの)望月のように、
欠けているところも無い

  栄華を極めた貴族が、
  得意の絶頂にいる様を表すものとして、
  紹介される事が多いようですが、

  私は古典の授業で初めて目にした、
  中学生の頃から疑問に思っておりました。

  「こと」は「ところ」なのか?

  「欠けたること」は
  「欠けているところ」と訳して、
  本当に構わないのか?

  大きく意味は変わらないじゃないか。
  何のいちゃもんを付けているのかと、
  呆れたり鼻で笑ったりした方のために、

  中学生当時の私が、
  初めてこの歌を目にした時に、
  頭に思い浮かんだ訳を書き記したい。

この世こそ実に私の世だと思う
(この世の全ての)望月が欠けていくことも無いと思えば

  「こと」を「ところ」にしただけで、
  印象なんかは大違いだと思わないか?

  月が欠けないことなど有り得ない事くらい、
  当時の貴族においては常識だったはずだ。
  つまり和歌全体を駆使した反語表現であり、

  道長は当時が自分の世だなんて、
  さらさら思っちゃいなかったんじゃないか?


  と私は中学生時代から疑問に思っているんだが。

  大体真実に得意絶頂でいたとしたら、
  なぜ言い切らない。
  むしろ個人的な感想を意味する、
  「思う」が2回も使われている。


側近の胸の内

  そもそもこの歌は、
  祝賀とはいえ割と個人的な宴席の模様を、
  側近だった藤原実資が、
  日記(『小右記』)に記したものだという。

  パワハラ上司の愚行を、
  めちゃムカついたから書き留めたみたいに、
  解釈された文献も私は目にした事があるが、

  側近の立場で書き残す『日記』とは、
  対人関係や贈答品目や儀礼式典などで、
  誤りや失礼が無いよう記録するものだぞ?

  『源氏物語』の草稿さえ、
  紫式部が隠しておいたものを、
  留守中に忍び込んで持ち去るような道長が、
  実資の『日記』を日頃から、
  参照していないわけがなく、

  いつ本人に見られるとも分からない『日記』に、
  ムカついたその腹いせ程度の心境で、
  書き遺しているはずがない。


問題は後の世からの視点である事

  つまり私の解釈はこうだ。

  地位とか役職とかから、
  栄華を極めたみたいに思えるからって、

  道長が策略使ってのし上がったとか、
  図に乗って得意満面に振る舞ってたみたいに、
  皆さん思い込み過ぎていませんか?

  ええ正直に言って、
  古典を専門とする学者先生すら、
  初めからそのイメージありきで、
  古典を紐解き読み進めて、
  御自分が想像した姿をさも真実であるかのように、
  研究論文にも書き込んじゃっていませんかね。

  去年の高野山大学での市民講座で
  私も初めて知った話だけど、
  天皇が元服(成人)したらすぐ、
  道長、摂政(天皇の補佐役)退いてるから。
  決められた通りきっちり。

  実際道長一人の思惑通りに動かし切れるほど、
  律令制って甘っちょろくないと思うのよ。
  リアルタイムでその中にいたらと、
  結構真剣に想像しながら文献読むとゾッとするよ。

  

  

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