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ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』(並びに読書行動パターンについて)

 以下の自作品中に潜り込ませてしまったからには、
 私自身の感想を残しておかなければフェアではないだろう。

(約3000文字。長くなった)


読書行動にもパターンがある様子

  私の友人の中で一番の読書家であるMさんと、
  読書冊数そのものは少ない私の配偶者とが、
  似通った、かつ尊敬に値する読書行動を取っている点は、
  大変に興味深い。

  片や遊び代も食事代も全て、
  文庫本の冊数に換算して判断するMさんと、

  片やトム・クランシーと大藪春彦、
  そして彼が好きな人物の自伝・評伝しか、
  読んだという話を聞かない配偶者だが、

  共に情景を想像しながら頭の中で、
  映画を作るかのように1ページずつを大事に読み進めるので、
  一度読んだ本の内容はほとんど忘れていないと語る。

  文章マニアな小説家と自負する私だがその能力は持たない。

  私は文章そのものの流れに、
  見開きごとの余白も含む文字組みが、
  織り成し醸し出す風情に即時胸を打たれるのであって、
  内容はすぐ忘れてしまう。
  感想を書きたいなら少なくとも、
  3回は読み通さなくてはならない。

  美文良文に誤字脱字文法、原文か翻訳文かも関係は無い。
  この印象に感覚はまさしく、
  この作者の手から成るこの状況描写にしか表れないと、
  察せられる文章がとにかく、
  脳髄からヨダレが噴き出すほどに大好きだ。

  例を挙げると私を最も痺れさせたのは、
  谷崎潤一郎の初期の小編『幇間』中にある、
  目隠し鬼の鬼役をさせられている幇間の、
  滑稽にして哀切が滲むその姿が、
  彼自身が感じているだろう薄暗がりの中、
  一幅の絵の如く立ち現れてくるかのような一文だ。

  しかしこれは、
  私が「幇間」という役職と歌舞伎に、
  多少の心得があるからこそ感じ取れる風情であって、
  読んだ人の誰にでも得られる感覚ではない。

  つまり、私は谷崎にはなれないし、なる必要が無い。
  私は歌舞伎の素養を持つ人々向けの話を書いてはいない、
  という自負までをも与えてくれる。

  ……などと語っていると冒頭の両者からは、
  「お前の方が変態だ」と断言されてしまうのだが。


珍しい装丁買い

  ところである程度の読書家には、
  「装丁買い」という買い方が存在する。

  表紙はもちろん装丁全体にどうしても、
  心を惹かれて購入してしまう、
  というヤツだ。

  私は以前からそこそこやりがちなのだが、
  珍しくも配偶者がそれをやった貴重な一冊が、
  ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』だった。
  (昭和26年発行、平成20年125刷、新潮文庫)

  「なんか。面白そうだと思って。
   表紙の男の子が可愛い、っていうか気になるっていうか」

  そして読み終えた途端に大絶賛した。
  配偶者の「大絶賛」は、
  読み終えるなり穏やかな微笑みを浮かべ、
  「良い本だったよ」
  と私に手渡すだけなのだが。

  恥ずかしながら私自身ヘルマン・ヘッセの名と功績は、
  文学史で丸暗記した程度にしか知らなかったので、
  「それでは」と続けて私も読み始めた。

  配偶者が数ヶ月かけたものを、
  私は3日ほどで(一度は)読み通してしまうのだが、
  もちろん誉められた事とは思っていない。

  とりわけ小説の読書において、
  速さは決して望ましい要素では無い。


私の読書パターン

  まずはひと通り、
  好みにあってハマり込んだなら、
  周りも見えず寝食も忘れかけて読み通す。

  そしてその印象を残した上で、
  また初めから精読する。

  2回の通読で得た知見を元に、
  また初めから読み直して、
  初読時の印象を調整・整理する。

  わりと大切な事に思っているのだが、
  2回目の通読を終えてしまうまでは、
  作者並びに書かれた当時の状況または時代背景について、
  極力調べない。

  言い方を変えれば、
  2回読み通した時点で相当気に入った作者なり作品は、
  どんな端々の情報でも知りたく思うので調べまくる。

  要は私の気に入るか、気に入らないかに対して、
  世間的な評価に基づく様々な情報を仕入れたくはない。

  巻末の解説ですら、
  外国作品や古典作品となると、
  「本当はこの作者に作品好きじゃないんだけど、
   この言語やこの時代に関しては私が第一人者だから、
   頼まれて仕方なく引き受けたんだよ」
  的な内容を、
  わざわざ書き残しになる方もいらっしゃいますのよ。

  同じ作品が大好きで大好きで喉から手が出るほど訳したい方も、
  必ずやわりと身近にいらっしゃいますから、
  お退き下さらない?


ここからが本題の感想

  あらすじ:

    その地域では飛び抜けた秀才だった事と、
    家庭環境もあって生涯を、
    牧師か教師に定められた少年、
    ハンス・ギーベンラートは、
    州の試験を経て神学校での寄宿生活に入る。

    同級生たちと馴染めず、
    親友となったハイルナーからも都合良く扱われるが、
    それでも幾らかの慰めにはなっていた友人を失うと、
    それまでの疲労と疲労の蓄積に押し潰される。

    

  改めて読み返してみるまで、
  川を滑るイカダと、
  収穫後の村中が搾るリンゴの香りと、
  中盤で亡くなるヒンズーと呼ばれた少年くらいしか、
  詳しいところまでは覚えていなかった。

  しかしながら全体の印象として、
  少年の精神が軋む音を立てながら、
  潰されていく圧力を感じていた事は残っている。

  そして改めて読み返すと、

  あるあるー♪   やだーこれ私よく知ってるー♪
  めっちゃストレスかかってる時って、
  怒鳴られてる真っ最中でも(ってかだからだよ)
  自分の軸が細かくブレる感じがして、
  適切な受け答えなんか出来ないのよねっ♪

  よくこの辺忘れてたなって驚いたくらい、
  泣きたくなるほど身に沁みて感じられた。

  それでも「悲劇」と一言でまとめてしまうのが
  どうにも不躾に思われるのは、
  ハンス少年が本当に好きだったもの、
  心から美しく感じ取っていた世界を、
  垣間見せてくれるからだ。

  理解は出来ない。
  理解できる、などといった思い上がりは、
  なるべくなら他人にも自分にも、
  求めない方が良い。


  配偶者も釣り好きで、
  宗教系の全寮制男子校に入っていた時期もあり、
  私以上に共感できる要素が多くあったと思うのだが、

  彼には当時を思い返して、
  「罪無くしての懲役生活」
  と笑い合える友人たちがいるし、

  私には子供時代の輝きなど皆無だった一方で、
  もうあの頃に戻れないといった痛切も無い。

  「ヘッセの自伝小説」と評される事にも疑問がある。
  小説家は確かにイメージやモデルは持っていたとしても、
  自分とはまた異なる別の人間像を築き上げているはずだ。

  ハンス少年その人に、
  どういった心をどれほど寄せるかに、
  読者それぞれの精神性や価値観が現れ出る。
  故に「正しい感想」といったものはほぼ存在しない。

  学校教育には希望を言えば、
  こういった小説を取り上げてもらいたい。
  大変に難しいとは思うけれども。

  クラスでディベートなんかやらせた日にゃ、
  「寄宿学校時代がBLっぽくて萌え♪」
  と私的な奴が腐女子精神を発揮して、
  配偶者的男子を心底怒らせるだろうから、
  個々人で感想なり書いた方がマシだろうと思うけれども。
  (腐女子とて集団内では幾分か、
   自らの役割に課せられたネタと心得て喋るのであって、
   読んでいる最中は辛すぎて悲しすぎて、
   それどころではなかったけれども)。  

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