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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノ一(4/4)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

(文字数:約2200文字)


 安心した、大丈夫だって自分にも、言い聞かせてはいたんだが。
 それまで直接には知らなかった誰かと、初めて顔を合わせたその夜は、ソイツも引き上げて部屋の内に一人になるとどうしても、あの、唇に受けた感触を思い出す。
 あの時以来頭のどこかでずっと、小さくだが警告音が鳴っている。違う。違うんだ何かが。決定的に。俺はこんなじゃない。これが俺ですよってお見知り置き下さいねって、やってる端から頭の奥で細かく、小突き返される。違う違う違う違う違う違うって。
 めんどくせぇから俺はつい、長持から良い具合に色も抜けた安とんび引きずり出して、ザツに羽織りながらついつい、夜の街まで出歩いて、ふらりと安居酒屋に入ってしまう。
 味なんかはどうだっていいからやっすい酒を、さすがに桜も咲いている季節に無粋極まりない感じがして、銚子で人肌程度にぬくめてもらっている。小汚ねぇ居酒屋の中にいて、忙しなく働いている大将見させられながらの、番台に横並びで、桜なんざ見えちゃいねぇんだが、頭の内にある分だけで結構だ。夜風に吹かれてまで一人で、眺めていたい花じゃない。
 見てくれは確かにキレイだが、身をよじりながらうめき散らしてんだありゃ。助けてくれこれ以上苦しめないでくれって、目の前で酔っ払っては浮かれ騒いでくれる人間どもに向かって、誰か、誰でも良いから気付いてくれって、大泣きに嘆き倒してんだから、そりゃ派手にも豪華にも見えるだろ。
 ってか何だってこの国じゃあ、桜の時期に、わざわざ新しい面構えに次々出会い続けてなきゃならないんだ。泣き声がうめき声があちこちから、かすかにでも伝わり続けて鳴り止まない時期に、向いてねぇ。むしろ気が触れる方面におあつらえ向きじゃねぇか。
 気が触れる、って言い方は面白いな。言い得ている。要らないものに余計なもの、それまでには無かったものが触れてきて、それまでどうにか形良く、整えてきたものを崩しちまう。それが傍の目にはいきなりどうかしちまったみたいに見えるんだろうが、本当は、とっくの昔に限界すれすれまで近付いているんだ。
 そんで本当は、通り過ぎてくれたならまた元の姿に戻らないとも限らないんだが、一度気が触れちまうとソイツはもうそれっきり、はい生涯お仕舞い、みたいに思われがちなところが、どうにも、面白くねぇ。
「よぉそこの、赤い髪の兄ちゃんに回してくんな」
 大将の声に乗っかって、銚子が淀み無く流れるみたいに俺の手元まで、届いて来た。俺はせいぜい愛想の良い笑みを作ってやって、大将に皆さんにと手を振って、その笑顔を張り付かせたままで猪口に向かう。
 人目を引く気色の悪い髪の色してるってのは、悪くない。誰も彼も俺の頭の色しか見てやしねぇから、他の事なんざ覚えてもいない。いざって時は頭の毛すっぽり覆っちまうだけで、俺は変わらず同じ場所にいるってのに、皆面白いくらいあっさり見過ごしてくれる。
 顔、見覚えられたら困るんだ。なんで困るんだっけ。誰からも忘れられたい。そういう、仕事だからさ。ああ。そうだったな。仕事だから、うん、仕方ねぇんだ。だけど、じゃあなんで俺そんな仕事選んだんだっけ。

「どうか、誤解しないで欲しいんだ。今のは、その……、君があまりにも美しく思えて……」

 喉元までこみ上がりかけたヘドを、払おうとして「へはっ」と力の抜けた笑い方になる。美しい、なんて言葉は俺、好きじゃねぇ。相手を体よく踏みにじりたい奴が、自分すら騙そうとして言う文句だ。
 それよりもっとしょうもねぇ文句は、聞いただけで耳が付け根から腐り落ちそうな、アレだが。

「愛しているんだ僕は。君の事を、本当に。その、本当の意味で」
「頼むから」

 って俺の言葉は随分と、虫酸が走るくらいに弱々しく響いた事を覚えている。頼む? 頼むだってこの期に及んで。頼む、どころの騒ぎじゃねぇだろその頭、今すぐひねり潰して叩き割ってやりてぇくらいに、気色悪いんだよこっちは!
 ってはらわたは相当に煮えくり返っていたんだが、何せソイツの家で、ソイツの部屋の中で、俺はのんきに昼寝かましてたってなんともだらしねぇ状況もあるし、ほんの十数分前までは、友達だって思い込んできた奴で、コイツには腹の内そのまんまじゃなくってもうちょっとは丁寧な言い方選んでやろうって、割りと気を遣いながら接してきた奴でもあったものだから。
「もう、聞きたくない。君の言葉は、何一つ。顔も、見たくない。悪いけど、俺だってここまでになるなんて、思ってもみなかったんだけど……」
 冷静に、口調だけは落ち着いて喋り切れた分、向こうには、相当キツく届いていたのかもしれないが。

「君の、名前を思い出す事だって、嫌だ」

 唇と唇とが、軽く触れ合った程度で大袈裟な。
 そんなもん、お話にもならねぇくらいに気色の悪い事、俺はそこら辺の女相手に、そこから先何度だってやってきただろってのに。自分がやられる側に回っちまうと耐えられない、ってのは、図々しいもんだって、自分を嘲笑って良いんだか、そりゃそうだろうと、居直って許されるもんなのかだ。
 許されるって、誰のどういった許しが要ると思ってんのか、俺にだってまるで分かっちゃいねぇんだが。


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→ 罰ノニ 習い性となる

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