日記のメモ書き2022/10/01

今日はおばあちゃんが満州にいたころのはなしを聞きに行きました。満鉄に就職したため移住した夫婦の間に満州で生まれたのが私の祖母で、終戦後5歳で日本に帰ってきたのだそう。3歳の弟も一緒に、迎えに来たおばあさまと母との4人で帰ったらしい。

祖母は、今日のことをとても楽しみにしていたらしく、何度も、ありがたいねぇ楽しいねぇ良い日だったねぇと言っていた。

概ね明るく始まりながら、ほがらかに語っている場面が多かったのが印象的だった。祖母の性分なのかもしれないけれど、柔らかく笑いながら、笑みのないときもありながら。

満州でも空襲はあって、大きな防空壕があったのだそう。飛行機の音がするとそこへ逃げて、ぎゅっと身を抱えて待つ。こわかったねぇって。
だから灯りががなるべく漏れないにしてたんよって。

それから、冬はすごくさぶくてドアノブをにぎったら手が張り付いてしまうんよ、とか、でも夏も結構暑かったような気がするんだけどね、とか。

弟と母と3人で鉄道にのったら、あんまり弟がはしゃぐもんだから他のお客さんに「元気な坊ちゃんねぇ、何食べたらこんなに元気なんかね」って言われて「コーリャン!(キビみたいな穀物)」って答えたんよってはなしとか。


それでそのなかで、なにより一番こわかったって言ってたのがソ連兵だった。

大柄で兵服を着た男たち。おばあちゃんには、赤ら顔に見えたのね、って。背も高くて。
それで、ソ連兵たちは、家々の戸を無理矢理開けさせるのだと。

祖母の家にも無理やりソ連兵が入ってきたことがあったそう。
「ほんとうは恥ずかしいことなんだけれどね、ソ連兵が母を連れてトイレにこもってしまったの」
「そのあとどうということは聞いてないんだけどね」
そう静かにね、おばあちゃんは言っていて、私は頷くしか出来なかった。

ああなんだかもうやりきれないと思いながら聞いた。
性暴力とそれを抱えて生きてきた人がすぐそばにいたこと。今も同じ危機にさらされている、特に兵からの暴力にさらされている地域のこと、鍵束をにぎって歩く女性たちのこと、wamで見た戦時性暴力のこと、女たちのことば、

今だってまともに取り合われない、隠されるそういう暴力が明らかにあるということ。 嘆きと怒りと悲しみが綯い交ぜになって、わなわなとひたひたと湧いてくるような感覚だった。

日本への帰り道は、髪は切り、男性の服を着て逃げたと。「襲撃されないようにね、男の格好をしてね、歩いてたんよ」と。
襲撃には本当に厚い意味があるとおもう

曾祖母の妹さんも満州からの引き上げだった。
彼女は10代の後半で終戦を迎えて、髪を切って男の格好をしてなんとか日本に帰ってきたのだと、お葬式のときに初めて聞いたのだった。
だから、そういうことがあるのだと衝撃と共に知ってはいたのだけど改めてあぁと思う。
ばあちゃんは、あのお葬式の時の話をどんな風景を思いながら聞いたのだろうか。


自分を連れて帰ってくれたことをほんとうに感謝しているのだと祖母は言っていた。あんまりにも泣くから置いて行かざるをえなかったとか、病気にかかったとか、人数が多くて連れて帰られないとか色んな事情で、残された人なくなった人が居る中で、ほんとうにありがたいことなのだ、と。

息子やわたしがそのおかげで今ココに生きているということを、今の幸せがあるということを非常によろこび、感謝していた。


祖母が覚えていることは少なかったけれど、その後弟さんに電話を掛けてくれて、向こうでの住所やもう少し詳しい様子なんかも分かってきた。弟さんは、お母さんからよく話を聴いていたそうだ。
ここから、また少しずつ調べてみたいと思う。


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