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「許せること」と「譲れないこと」

新学期

長男たこ、長女ぴこ、次女ちぃは、昨年より引き続き不登校ではありながら、気が向いたら極々稀に学校に行く日もある。

そんな中で、新年度を迎え、昨年まで許されていたことが、新年度はできない、という事もいくつかある。
小学校で許されていたことが、中学校ではできません。であったり。
小学校でも、先生が変わり、価値観がまた少しづつ変わっていく。

”良い””悪い”ではなくて、疑問に思う。それぞれの人に、物事を判断する尺度があって当然だけど、それを他者に”押し付ける”のは違和感を感じている。

寛容と不寛容のパラドックス

その他者からの”押し付け”に違和感を持っていたところに、戦友(不登校を一緒に戦ってきたママ友)から、1枚の冊子をもらった。

そこには、寛容と不寛容のパラドックスについて書いてあった。

広辞苑には、
『寛容』・・・人をゆるして咎めないこと。罪を責めないこと。異端者の自由を認め、差別しないこと。
と書いてあり、『不寛容』はもちろん寛容を許さないことだ。

その冊子には、『寛容を突き詰めると、すべての自由を許すことになり、犯罪なども”個人(他者)の自由”の枠で捉えなければならない。人々は自分に不寛容(他者の自由を寛容に受け止めることは、自分の気持に不寛容になること)にならなければいけなくなり、すべてを許す寛容さに社会は崩壊するだろう。

では『不寛容』であれば規律が保たれるのか、といったらそうじゃない。他者を許すことができない社会で、人々は”個人(自分)の自由”を奪われる。(他者に許してもらえないのなら、自分の自由も通すことができない)すると、何も許されない不寛容さに結果寛容になり、社会は崩壊する。

わけがわからない。
結論、『不寛容に対して、不寛容であるべきだ』という。
思考回路はショート寸前。耳から煙が出そうだ。

クラスでの出来事

ちぃの友だちのホシちゃんは、とっても真っ直ぐな女の子だ。
ホシちゃんのお母さんは、ホシちゃんの正義感の表現方法に「そんなにトゲトゲしなくても・・・。」とヒヤヒヤしているようだが、ちぃの母という立場で見ると、キラリと光るものを感じている。

寛容と不寛容を考えていたときに、ちぃのクラスで起こった出来事がある。これはホシちゃんのお母さんから聞いた話だ。

ホシちゃんの後ろの席には、歌が好きな子が座っていた。その子は、授業中も給食のときも歌を歌っているという。はたからその話を聞けば、面白い子もいたもんだ、となるが、ホシちゃんの立場に立ったら、授業中に先生の声が聞こえない死活問題となる。

ホシちゃんは歌を歌っていたその子に、
「先生の声が聞こえないから、静かにして!」と伝えたそうだ。

ホシちゃんのお母さんは、
「キツイ言い方だったのではないか。相手を傷つけてしまったのではないか。」と、クラスメイトをとても心配していた。
しかし同時に、ホシちゃんの主張は間違ったものではないこともあり、
「相手に優しく伝えられたら良いね」と話していた。

それに対して、寛容、不寛容の話を思い出す。寛容であったら、ホシちゃんはクラスメイトの歌を許して、我慢し続けなければいけなかっった。
では、不寛容に対応したホシちゃんは、優しくないのか?

私はホシちゃんの正義は正しいと思うし、ホシちゃんはとても優しいと思う。

自分の許容範囲を超えて来た他者の介入に対しては、ハッキリと「NO!」を言って良いと思う。
それは、そうするのが苦手な私自身にも、長女ぴこに対してにも、感じるジレンマ、コンプレックスであった。

ハッキリとモノを言えるホシちゃんを、私は尊敬する。

私自身は、人間関係に角を立てることを避ける。それは相手を許して受け入れているわけではなくて、”関わらない”という消極的な選択のことが多い。

ぴこは、「自分さえ我慢すれば丸く収まる」と、色々と溜め込んで爆発するタイプだ。

相手に、自分の許容範囲を侵されていることを伝えないことで、自分の中で勝手に相手を嫌いになったり、傷ついて落ち込んだりしている。もちろんそれは、相手には伝わっていない。

ホシちゃんは、ホシちゃんのお母さんが心配するように、セリフに怒りの感情を上乗せしていたかもしれない。しかし、とても真摯に向き合っていると思う。それは、絶対に必要なことだし、相手のことも大事にしているのではないか、と私は思う。

もし、ホシちゃんが「静かにして!」を伝えずに、私のように消極的判断で相手から離れたら、クラスメイトはきっと、席替えをした後も自分が誰かの”困った”を引き起こしていることに気が付けない。ホシちゃん以外の子もストレスを感じていたとして、私のように離れたら・・・。
そのクラスメイトは、自分の気が付かないところで、いつの間にか一人ぼっちになってしまうのだ。
私の取りがちな、保身ゆえの消極的行動は、回り回って相手を傷つける。優しくないな、と思うし、冷酷だと思う。

ぴこはきっと、自分が我慢し続ける。自分の発言が相手を傷つけてしまうのではないかという恐怖で。相手に悪気があるわけではないことが分かっているから。意地悪ではないのだから、自分が神経質なせいで気になる自分の問題だから、伝える必要はない、と。そしてストレスを溜めて、潰れる。
その時に、もしクラスメイトが、自分の意図しないところでぴこを傷つけていたと知ったら、クラスメイト自身は傷つかないだろうか?きっと悪気がなかった分、ショックを受けるに違いない。

そう思うと、やっぱりホシちゃんの行動は、すごく勇気のいることだし、自分が嫌われ役に転じるリスクも超えて、相手に苦言を呈す素晴らしい行動だった。『世直し』とでもいうのか、キラリと光っていると私は思う。

ホシちゃんの真っ直ぐさ

ホシちゃんの『行動力』に感心した話は先述の通りだが、私は、『伝え方』も優しいな、と思っている。

理由は、”人”ではなくて、”行動”にリクエストをしている点だ。

授業中に歌を歌っている子に注意するときに、きっと色んな表現方法があっただろうな、と思う。
「お前うるさい。」とか、「黙れバカ!」とか、「キモ!」と言われるであろうことは、容易に想像できてしまう。

でもホシちゃんは、絶対に”人”を否定したり、下に見たりしない。
”行動”にフォーカスして、「静かにして」とリクエストを出している。
教育や保育や育児を勉強したわけでもない2年生の子が、自然にこれが出来るという事実に、ホシちゃんの魅力を感じずにはいられない。

知識で頭を埋めていたって、「まったくあんたって子は!」と子ども自身の事を否定してしまう母である私は、ホシちゃんを心底尊敬する。

”人”ではなく”行動”にリクエストを出すことは、本当に難しい。相手を許す寛容さがなければ出てこない言葉だと思う。”人”が悪いんじゃなくて、その”行動”にこちらは困ってるんだ、と伝えることは、フラットに人を見ていないとなかなかできない。

やっぱりホシちゃんは、とてもピュアで、真っ直ぐだな、と思う。

親が介入するところ

ホシちゃんのお母さんは、「言っていることは正しいけど、相手を傷つけない言い方があったんじゃないか。」と頭を悩ませていた。

もし、注意を受けたクラスメイトが傷ついたかもしれない論点としては、ホシちゃんの『怒り』の部分に起因すると思う。
クラスメイトは自分の意図しないところで相手を怒らせた悲しみや、自分の不甲斐なさに傷つくのだと思う。

でもそれは、ホシちゃんの責任にはならないのではないだろうか。
相手の感情は、相手の問題だ
先述したロジックで、私やぴこのような対応をされなくて良かった、と。「気付かせてくれてありがとう」とクラスメイトが捉える可能性もあるだろう。

ホシちゃんのお母さんは、ホシちゃんが優しく人に伝える方法を知り、誤解されずに、ホシちゃんの思いがまっすぐ伝われば良い、と願っていた。
同じ親として、すごく共感する。我が子を悪く思われたくはないし、敵を作ってほしくもない。当たり障りなく、平和に生きていって欲しいと願うのが親だ。

でも、それは親が関われる範疇を超えている。四六時中一緒に居られるわけはないから。
子ども自身が、自分の思いのままに行動して、相手との関係性の中で学んでくしかないと思う。
沢山の関わり合いを通して「言い過ぎた。」とか、「あの時、こう言えればよかった。」とか、後悔と葛藤を経験値に変えていくしかない。

私は、言葉足らずの子どもたちの代わりに、随分と経験を奪ってきてしまった自覚がある。子どものトラブルに「ごめんね。」と親の私が代わりに謝ったりしたことは数え切れない。
我が子は、トラブル時、怒って走ってどっかにいってしまう事もある。もしくは自分は気にしないから、と相手も気にしないだろうと考えて失礼な態度をとってしまう事もある。

そんな時私は母として、相手の子どもに「ごめんね」と伝えてしまう。
そしたら、その子は我が子に怒ることができない。文句を言ったり話し合うこともできない。
私は、良かれと思ってやっていたが、もしかしたら子どもが子ども同士ぶつかり合って学ぶ機会を奪っていたのではないか、と思う。

では、親が出来ること、大人が入るべきタイミングってどこだろう?と考える。

私の信条として絶体的なものがある。
『自分を傷つけてはいけない』『相手を傷つけてはいけない』この2点だけはいつも心の中にあるし、子どもたちにも事あるごとに伝えてきた。
「大事にしよう。」「優しくしよう。」と。

子ども同士の喧嘩を見ていて思う。本当に些細なくだらないことが、激しい言葉と攻撃を伴った過激なものになることも多い。

お風呂洗いの当番をやりたくない!と主張したぴこに対して、長男たこが「お前はホントに無責任だね。家族が困るって分からない?バカなの?」と煽る。
ぴこは「疲れてるから変わってって言っただけじゃん。どおせぴこはバカですよ。バカだから風呂の洗い方わかりません。代わって。」と言い返す。
たこが、「疲れてるのお前だけじゃないから。そんなことも分からないバカなら、風呂の洗い方わからなくても仕方ないね。シャワーかけて、スプレーして擦るんだよ〜わかるかな〜?言葉、理解できますか?分からない単語がありますか?おバカさん♪」と人差し指でこめかみをトントンして”頭使え”のジャスチャーをする。そしてぴこは怒り狂う。

はぁ。ため息が出る。やれやれと母は思う。『寛容』やら『不寛容』やらという小難しい話はわからないが、優しくあってほしい。
自分も相手も大事にして欲しい。

ホシちゃんのお母さんの危惧するところの『伝え方』が本当に大切だ。
相手に自分の思いを伝えるときに。主観でフィルターを通した言葉をブツケたら、相手を傷つけてしまう。”人”への攻撃になってしまう。

「無責任」とか、「バカ」とか、そんな煽りは必要なかった。
たこが本当に伝えたかったことは、「ぴこがバカだということを自覚しろ」ではなかったはずだ。「家族のために子どもたちで協力して当番組んでるお風呂洗いを、ぴこにやってもらいたい。」と言いたかったのだと思う。

親(大人)の入るべくタイミングはここだと思う。
相手の人格否定が入った時。自虐が入った時。
本当に伝えたいことは何だった?相手を貶めたい訳じゃないよね?
自分を凹ませて自暴自棄になりたいわけじゃなかったよね?

『相手を傷つけること』と『自分を傷つけること』だけは、私はどうしても許すわけにはいかない。

感情のパワーは凄まじい。
マイナスの感情を事実に乗せてしまうと、破壊的な言動になる。
プラスの感情を事実に乗せれば、喜びや感動が増す。

『許せること』と『譲れないこと』は人それぞれに持っていて、結局、良いも悪いもないけれど、みんなが気持ちよく過ごすためには、やっぱりお互いの真意を分かち合える”対話”が必要なのだろうな、と思う。


自分への教訓

  • まっすぐ相手に向き合うことができる人間は、とても素敵な人だな、と思う。

  • 本当に伝えたいことが伝われば、きっと分かり合える。

  • 寛容や不寛容という白黒ではなくて、限りなくグレーで良い。お互いの握手できる地点を探るしかないし、それを探し当てるために『対話』が必要だ。




学校で生きずらさを抱える子どもたちのために何ができるのか。 たこ・ぴこ・ちぃだけではなく、不登校児の安心できる居場所づくりの資金にしたいと考えています。