見出し画像

子どもを信じる事と子どもを守る事

信じる根拠を示してください

長男たこ・長女ぴこ・次女ちぃは不登校だ。
もう年度も替わろうとしているのに、一歩たりとも学校へ向かおうとしない。
来年度、当たり前に学年がひとつ上がるたことぴことちぃ。。たこは中学生になろうとしてる。ちぃは漢字どころか、カタカナもあやふやな状態で2年生だ。

我が子は大丈夫!生きる力はきっとある!!
そう自分を洗脳しようとしてきたけれど、信じるにはそれに付随する根拠が必要だろう!と最近強く思う。

人の信用を勝ち取るには、自分がどれだけ努力を見せてきたか、根拠を提示してきたかが大きい。それは、もれなく親子でも言える事だと思う。

自分の子を無条件に信じるなんてできない。目に入れても痛くないなんて言葉があるが、子ども可愛さに盲目になるのが親なのか?

この子たちが、不登校を経て、どう生きていくのか。リスクも考えながら対策を練る。子どもに疑いを持ち、このままで本当に大丈夫か?とやっぱり親として考えてしまう。

しかし、母は努力してそれを口に出さない様にしている。
タイミングをみて伝えないと、「はいはい、また説教ですか。」と斜に構えられて子どもの心に何も刺さらないからだ。

そこで母は、ある作戦にでる。題して『子は親の背中を見て育つ作戦』

母はお小言をグッと飲み込んで、子どもたちを家庭内で放牧し、自分は『簿記』の勉強を始めた。子どもたちよ!!親の背中を見るがよい!!むしろガン見しなさい!!ほら!!ママは今、苦手なお金のお勉強をしているのだよ!!偉いだろう?刺激を受けなさいよ!おい!私を見ろと言っているんだよ!!

そんな母の念力は子どもたちには全く届いていない。自分の為に勉強しているのか、子どもに見せつける為に勉強しているのか。雑念が脳内を巡り、勉強が何も頭に入らない。

どうしたら子どもたちが、動き出すのか。日々悶々としてしまう。
子どもを信じるとはどういう事なのか。

その答えを探していた。

放課後デイサービスの利用

長女ぴこは、不登校になって発達検査を受けた。学習スキルの凸凹が数値で表れ、対策を練りやすいと考えたからだ。

検査結果は、如実に凸凹しており、“ぴこの特性”というものが見えた。
さらにぴこは、その特性により、二次障害を発症していた。

ぴこには、“エピソード記憶が残りやすい”、加えて、“比喩・皮肉が分からない”という特性があった。この特性が小3のぴこに大きな傷をつける。

小3付近の子どもたちというのは、ギャングエイジとも呼ばれ、ヤンチャな言動をしたがる年齢だ。先生に対して煽りを入れ始めたり、友だちに優劣をつけヒエラルキーが生まれてくる。そして、それがイケナイことだという認識は、幼さゆえに浅い。大変なお年頃だ。

ぴこは、友だちとの遊びの中で、ブラックユーモアが乱発する日常に、それが冗談なのか本気なのか分からなかった。そして、怖い記憶だけがぴこの中に深く深く残り、恐怖のあまり不登校になっていた。

母は、ぴこのその違和感は間違ったものではないし、ぴこは“人の痛み”がきちんと判る、賢い子だと自負していた。
そんな理由から、ぴこにはもう一度、『人を信じて関係を築く』という環境を与えたかった。

学校や学童で、ぴこは痛めつけられ過ぎてしまった。母は、福祉に寄ってサービスを提供してくれる放課後デイサービスを利用することにした。

ぴこは、放課後デイサービス(以下:放デイ)を利用する中で、徐々に、本当に少しずつ人を信じられるようになっていった。特性についてもスタッフに周知してもらったし、大人が傍についてくれることで、ぴこの「冗談?本気?どっち?」といったモヤ付きに、即座にフォローが入った。

ぴこは、安心して放デイに通えるようになった。

放デイの友だち

ぴこが、放デイを利用して、半年経とうとしている。仲良しのお友だちも何人か出来て、母もぴこから友だちの名前を聞く頻度も増えた。とても喜ばしい事だった。

優しい人って必ず居るよ。ぴこの味方は本当に居たでしょ。そう確認し合いながら、ぴこと放デイの関係を見守っていた。

ぴこの通う放デイは、送迎付きだった。
ある日、ぴことぴこの友だちが、同じ車に乗って帰ってきた。放デイスタッフが、我が家のインターホンを鳴らす。

いつものように、印鑑を持って玄関にでると、スタッフの息が切れている。何事かと思うほどに疲れが見えた。大丈夫ですか?と声をかけると、

「っ本当にもう!事故にあう所です。大変です。ぴこちゃんは被害者ですよ!」とはぁはぁしている。

どういうことかと話を聞くと、お友だちがぴこと一緒に帰れることが嬉しくて、悪ノリして、「靴下の臭いをかげ~!」と運転中のスタッフに足を向けたという話だった。

ぴこが被害者とは?と思いぴこを見ると、全く被害を受けた様子は無く、テンションの高い友だちをなだめながら笑っていた。
「危ないから、スタッフのいう事聞きなさいよ。」とぴこは、友だちを落ち着けようとしていた。

スタッフには、“疲れ”と同時に、お友だちに対する強い“怒り”も母は感じてしまう。

人間だもの。余裕がなくなることは当然ある。ましてや、放デイを利用するからには、癖強な子も多い。だから福祉を利用している。癖強な子にいつもヘラヘラしてばかりは居られない。当然だ。大人だって人間だ。感情がある。

でも、母は思ってしまった。百歩譲って、余裕が無くなって、感情が抑えきれないことはあるだろう。しかし、私は、利用者の保護者だ。ぴこのお友だちに対する“怒り”の部分は、支援者として、利用者の前で、出すべきではない。それが仕事だ。少なくとも、私たちは“福祉”を利用している立場なのだから。

そう思ってしまった。だってそうだろう?もしぴこが、何か支援者の気に入らないことをしてしまったら、“怒り”をぶつけられてしまうのか?
スタッフ側の怒りに起因する『教えても教えても子どもに入っていかない』という現実。その苦労たるや尋常では無いことは我が子の子育てを通して、重々承知している。でも。だから、福祉を頼っている。

スタッフ仲間同士で愚痴ったって良い。怒ったって良い。作戦を立てて良い。大人も自分を浄化する手段は持っていなければ辛いと思う。
ただ、支援者と利用者(しかも当事者の保護者ではない他人)の間には、きっちり線を引いて、“怒り”は伏せなければいけないのではないか、と思った。

お友だちのママさんとの話

そのスタッフへの疑問を抱えながらも、ぴこは放デイに通った。
幾日か過ぎて、以前同じ車でぴこと一緒に帰った“お友だち”のママさんと話す機会があった。

お友だちのママさんは、子どもと一緒に我が家にお土産を届けてくれた。
ちょっと玄関で、なんて母同士が話していると、友だちは「中見たい!!」と靴を脱ぎ、我が家に入ろうとする。

ママさんは、「だめだよ!」と友だちのジャンバーを掴み制止しようとするが、友だちはホフク前進して玄関マットを掴み、力づくでママさんの制止を押し切り、我が家のリビングに飛び込んだ。

「ごめんなさい!」と慌てるママさんに、ぜーんぜん平気!汚くて恥ずかしいけど!あはは!と返すと、ママさんが緩んだのが分かった。

我が子たちは、いきなりの友だち乱入にテンションが上がってキャイキャイ楽しそうにしている。

ママさんと束の間、話をすることが出来た。
その中で、「うち、放デイ辞めることにしたんだ。」とママさんが話してくれた。びっくりした。どうしたの?他の所に行くの?と聞くと、困ったように笑って言った。
「他は探してないんだ。なんか、もういいかなって。」とママさんは言った。

「帰るよー!!」とママさんがリビングの友だちに声をかける。友だちは我が家のテーブルの周りを走り回っていて、全く帰る気が無い。何度も何度もママさんは笑顔で声をかけていた。

ぴこの母である私が声をかけても、友だちは帰ろうとしない。「こっちも見たい!2階に行ってもいい?」とテンションがあがり、大人の声掛けが全く入らない。これは大変だ、とママさんの立場を思う。

ママさんは、終始笑顔だった。「もう!帰るよー!」と明るい声で呼びかける。「ほんとにごめんね~」とぴこの母に頭を下げながら。

ママさんを思う。ママさんは分かっているんだ。この子は怒ったってどうにもならない事を。親が怒れば、事態が悪化することを良く分かって対応しているんだと思った。ものすごい根気と忍耐だ。

親の怒りで子どもをコントロール出来たら、どんなに楽だろうかと思う。私にも3兄妹の育児を通して、同じような経験があった。

結局、楽しい刺激を少しずつ減らして、友だちがリビングのテーブルを回ることに飽きるのを待った。
「帰るよー」の最初の声掛けから、15分以上経過していた。

生き辛さ

友だちを思う。そして、友だちのママさんを思う。私の脳裏には、ぴこと一緒に帰宅した日の放デイのスタッフの“怒り”の感情が焼き付いていた。

友だちはきっと、沢山の人の“怒り”を買ってしまうのだろうと思った。奔放さ故に。それが特性が為に。
ママさんもそれを重々承知していて、我が子が少しでも生きやすいように、人の怒りに触れない様に、必死で頭を下げているのだと想像した。

そして、放デイを辞める決断をしたことに思いを馳せる。
今まで、怒りを沢山向けられてしまったのだろうか、と勝手に危惧してしまう。ママさんは、頭を下げることに心底疲れてしまったのではないか。我が子の理解を求めることに疲弊してしまったのではないか、と想像する。

もし、私の想像が本当なら、そんな辛いことはない。

一番辛いのは誰か。友だちだ。本人だ。自分の意としない所で、誰かの怒りを買い、楽しいと思う事が、誰かの迷惑になってしまう。そして、そのことに事前に気が付けない。やってしまって相手の反応を受けて、初めて気が付く。そして、自分自身、大いに傷ついて混乱してしまう。

そのことが見えている親もまた、辛い。子どもに傷ついて欲しい親など居ない。上手く生きて行って欲しいと願うのが親だ。どうして我が子はそんな険しい道を進むのか!心配でたまらないが、成す術もない。もう、子どもの事後処理に頭を下げる以外、出来ることがないんだ。

だからこそ、福祉の力が必要なのだと改めて思う。
その子がどうしたら、生きやすくなるか。お母さんをどうサポートすれば、子どもの為になるか。それが福祉の仕事であり、福祉だからこそできる支援だと、心底思う。

親は、孤独に闘っている。不登校も。凸凹も。子どもの抱えている問題を、自分の責任として全部背負って、子どもを守っている。

その親を潰してくれるなよ。と思う。親だってただのちっぽけな人間なんだよ。助けてくれよ。寄り添ってくれるだけで救われるんだよ。頼むから怒りの感情をぶつけないでくれ。重々、重々分かっているから。

私は、ママさんに、何をしてあげられるだろうか。
今度、子どもたち同士を遊ばせながら、コーヒーでも飲もう、と誘おうと思う。

自分への教訓

  • 子どもを信じるには、その子を信じる根拠を探すことだ。

  • 福祉・支援って、支えることだと思う。支援者が人間らしさを出してもいいけど、追い詰めることは、避けなければいけない。

  • 孤独に闘っている親子がいる。そこに気が付いた私には、きっとできる事がある。


この記事が参加している募集

仕事について話そう

学校で生きずらさを抱える子どもたちのために何ができるのか。 たこ・ぴこ・ちぃだけではなく、不登校児の安心できる居場所づくりの資金にしたいと考えています。