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偽物と真実の調和は永久にない

バランスが大事?

《調和》や《バランス》は、私が生きてきた中で、「必要だ」と思い、意識してきたものだ。見える世界だけに偏りすぎると、体調や精神を壊したりするし、見えない世界だけに偏りすぎても、肉体を持ったこの世界で生きるのに難しいと分かったからだ。

そのバランスこそが大事なのだと思い、どちらかというと「見える世界に偏りがちな世間のバランス」に合わて見せたり、その中でも見えない世界を大事にしたり、そのバランスを取るように人にアドバイスしたりしてきた。

どちらかを選ばなければいけない

でも、そのバランスなどないという。幻想と真実のバランスの取れたところなど、ないというのだ。0か100か、光か闇か、の極端な世界しかないと私にいうのだ。光と闇のレッスンはもう超えたと思っていたのに。

そりゃ、0か100だったら、100を選びますよ。光か闇かだったら、光を選びたい。きっとみんなそうだろう。でも現実的には完璧を目指すことは難しいから、ようやくグレーもOKにして、許容できるようになってきたのに、今更どういうことなのだ。

スクリーンの中の世界に生きるか、真実を生きるか

ただ、話は私が超えてきたと思っていた概念より、もっともっと根底の話のようだ。グループの調和とか、人間関係の調和とか、「こうじゃなくてはならない」を超えることとか、完璧主義からありのままを受け止めるとか、そんな分かりやすい話ではない。

それは、もっと「それ以前」の話のようなのだ。

スクリーンで見える世界は、映像の中にある。実際には今起こっていない。私たちがその映像を見ているとしたら、私たちはその外側にいる。

私たちが夢を見ているとしたら、その夢は実際には起こっていない。私たちは夢を見ている時、ベッドやソファーで目を閉じているだけだ。

その夢と、夢を見ている状態との中間があるか、スクリーンの中とスクリーンを見ている状態との中間があるかと言われたら...。うまくいく中間はどこだろう。

確かにない。そのバランスの取れた状態がどこにあるのか私には分からない。あなたならどう考えるだろうか。

平安か争いか、愛か恐れか

どうやら、私たちは選ばなければいけないらしい。

これまで自分が言ってきたことと真逆すぎて、正直自分でも笑ってしまうし、まだ「あれ? これはどう考えればいいんだっけ」と頭の中のチャンネルをガチャガチャ切り返してみることもあるのだが、でも、私たちではバランスを取れたりしないことは確実らしい。

争いの中のちょうどいい平安も、平安の中のちょうどいい争いも存在しない。愛の中の調和した恐れも、恐れの中のバランスの取れた愛などというものもないのだ。私たちは一瞬一瞬、それのどちらかを選び取る。エゴによって、愛や平安や光をその時は選ぶことができなくても、真実を思いだし、自分がどうしたいのかを認識することで、最終的には、ちゃんと選んでいくことができる。

いつも瞬間的に愛を選んだり、それを選び続けて行くには、どうやら訓練が必要らしく、私は訓練を続けている。これまでの概念がさらに崩れ、学んできた知識を捨て、本当のものを再構築する素晴らしい時間となっている。

ドラマチックで苦悩のある《偽物の世界の夢》から醒める

私たちが、これが夢だと気づいてしまったら、その夢の中にいつまでもいることなんてできない。だって、これは偽物だから。夢の国で、楽しさや喜びだけを味わえたらいいけれど、苦しんだり、絶望したり、身震いするほどの恐れや、些細で憂鬱な争いだって、もれなくセットなっている。喜びもあれば、同時に恐れも存在する世界なのだ。

そのドラマチックさが好きな時はまだいいけれど、永遠にしあわせにはなれないことになっているのだと薄々感づいた人は、もう夢を見るのをもうやめたいと願うようになる。ゲームを堪能して、結構長くやっているのに、なかなか幸せのゴールにたどり着けないなあとイライラしているときに、絶対にしあわせになれない設定のゲームになっていると発覚したら、あなただって「これ以上続けるのは無意味だ、もうやめる」と思うでしょう? 

これが夢だと知らない人は夢から醒める選択はないけれど、あなたが「今見ているものが夢だ」と知っているなら、自分が本当はどこにいるのかを思い出せばいいのだ。

その世界の間には、バランスはない。

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