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自分が特別だと思うために、私たちはエゴの声を聴く

特別であることは私たちの願い

エゴとは、自我のこと。自分を認識する意識だとも言える。私たちの中に愛の意識があるとすれば《愛》は存在同士をつなげ、対して《エゴ》は私たちを分離へ導く。なぜなら、エゴは私たちを個として認識したいからだ。

私たちの中には、認めている人も認めたくない人もいるが、「自分が特別だ」と認められたい意識がある。不思議なことに、自分個人で認めるだけでは納得できず、他者からもそれを認めてもらいたい気持ちが湧いてきて、それは貪欲に、認められても認められても、もっと認められることを目指してしまう。

「思い通りになればいい」という願望

私たちは神のように影響力を持ち、思い通りにできるほどの特別さを手にしたいと内心どこかで願っていたりする。その願いが平和であろうと戦争であろうと、支配であろうと、調和であろうと、「自分の思っているとおりになればいいのに」と願っているのだ。もちろん、「これがきっとみんなにいいはずだ」とかいう信念からの言い分もあるだろう。でも、それは後付けの言い訳だ。もっと正直に、明らかにするとしたら、結局はみんな、願いが何でも叶うほどに、自分が特別であれればいいのにと思っている。

正直に自問して、ひととき想像してみよう。「自分の思い通りになるとしたら、自分がどれほど満たされるか」を。願いが何でも実現するとしたら、なんとも自分を幸せにしてくれそうだ。私はその実現を想像したらとても気分良くなる。あなたもイメージしてみて欲しい。私たちがそうした願いを密かに持っているは、こうした自分への問いかけでも自覚できると思う。

しかし、実際の世界では自分だけが特別で、自分の願いがすべて叶い、世界が自分の思い通りになることは不可能だ。

そこでエゴは私たちにささやく。「もっと力を付ければ。」「もっと影響力を持てば。」「もっとすごいと分かってもらえれば。」私が人と違うことを分かってもらえれば、世界を多少なりとも動かせるのではないかと。

そのためには、自分がいかに特別であるかを示さなければならない。

そうして、私たちは他と自分を切り離す。自分が特別であるために。

個として生きるために、私たちは孤立する

人と同じではいけないのだ。人と違うことが大事なのだ。自分が特別であることを示すためには、自分という個を、他から離して見せる必要があるではないか。

私たちが、本当のつながりを取り戻すと、私たちは境界線を失って、個を失う。私がいなくなる。私が私でなくなり、私を認められなくなる。そんなことは、エゴには恐怖だ。だからこそ、エゴは必死になって、つながりを断とうとする。相手を責めたり、非難したり、攻撃したり、軽蔑したりする。自分に向かう場合もある。悲劇のヒロインになったり、自分を責めたり、自分を批判したり、比較したりもする。それもこれも、私たちは自分を特別にしたいがためなのだ。

個の消滅への恐怖

もし、あなたがもうこうした苦悩の時間をやめたいと思うようになって、本当のつながりを思い出したくなったら、本当のあなたの特別性は、個ではなく、つながった大きな1つにとんでもない無二の特別性であることを思い出さなければならない。そこは、私たちが肉体を持ったままで全容を理解できないほど大きく、絶対的なもので、私たちの特別性はその繋がった状態のものにある。実感できないとしても、今この瞬間にもそこに実体はあるのだ。

私の場合、その概念を知り、少しずつその感覚を取り戻そうとした時、その途方もない大きなつながりが自分とつながっているということに安堵を覚えながら、同時に恐怖も感じた。つながった感覚を取り戻せることには至福を覚えるのだが、個なくなるということは、消滅するような恐怖がそこにあり、ぞわっとするような忍び寄る恐れのようなものを感じて、直視することはできなかった。

つながりの中の個としてしあわせは存在しない

人間って、面白いなあと思う。つながりを感じられなければ、つながりを求めるし、「愛がないとね」とか「ALL NEED IS LOVE」とか言ったりするし、愛情を感じられなかったことを親のせいにしたり、時代のせいにしたり、世間のせいにしたりするのに、つながりだけでは飽き足らず、その中で望むことは、特別でありたいということであり、個として存在することなのだ。

つながりの中で個を確立すればいいように思うけれど、私たちが本当にしあわせを選択するためには、この個という前提を崩す必要があることが分かった。と、同時に、これまで【つながりの中での個としてしあわせ】がいいのだと思い、それを求めていたけれど、それがなかなか成立しなかったことにも合点もいった。そこではなかったのだ。両者が調和することは不可能だったのだ。永久に迷宮入りしている葛藤だったのだ。

個とつながりのどちらかを選ぶ

私たちが本当につながりを思い出す時、中途半端な状態でいることはできない。妥協のない完璧な二者択一、つまり、選ぶのは、エゴかかであり、個かつながりかなのだ。もちろん、私たちがその選択で揺れる時もあるけれど、よくよく注意してみれば、エゴの視点に移ったり、愛の視点から物事を見ていたりするだけで、その中間というのはないようだ。

そんな観察や、個人的な実践で分かったことは、【個の消滅】という恐れは、エゴが抱いている恐怖であり、エゴが私に恐怖をささやいている、ということだ。つまり、この恐怖は私自身の恐怖ではないことになる。個として認められ、一人だけ特別でいたいエゴが、私に「つながりを選んだら、消滅するぞ」とささやき、それを阻止しようとしているだけなのだと理解し始めた。

もし、それがただの幻想であり、トリックであるとしたら、私はそのトリックには引っかかりたくない。裏のある誘惑の誘いに乗らずに、本来の選択ができるようにに智恵を持ちたいと思う。幻想でゲットするまやかしの特別性ではなく、それが個人のものでなくてもいいから、つながりの中の途方もない特別性に戻れるとしたら、そこにしあわせはある。そのしあわせは、人生を生きていながらでも確実に体験できるものだ。

あなたはそのしあわせを望むだろうか。







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