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振り返る子育て ~ その1. 常にばか正直でいる事を心がけていた ~


先日、書類をしまおうとしたときに
突然外れて落ちてきた、カラーボックスの棚の
ネジ穴探しに四苦八苦しながら、考えていた。


最近の若い子たちを見ていて感じることや、
自分がどのように子育てをしてきたかということ。

ずいぶん体当たりというか
いきあたりばったりで、ずいぶん直感的だったけど

今までどんな風に子どもたちに向き合って、
これからどんな若者~大人へと、成長していくんだろう、、ということを。


現代の人たちを見て思う。

すごく、大人だ。若くても、すごくしっかりしている。

オリンピック選手とか、職場の同期同志とか、異性を含んだグループ内とか。すごくみんな仲良く見える。

ライバル心とか、敵対心とか、嫉妬心とか、全くないのか?

・・・いや、見せないのだ。

忍耐力があるとか、多様性とか、周囲を尊重するのだろうか?
うーーん、、、

協調性があって、集団を存続していくためには、ある意味”正解”なんだと思う。流行の”サスティナビリティ”的な在り方が、上手だ。

だいぶ変わっている私には
到底真似できないから、尊敬すら覚える。


現代って、あらゆるSNSに、
”こういう人が好かれて、こういう人がもてるんだよ”
”こういう人は要注意人物で、こういう人からは離れるべき”
と言う内容の、記事もよく見かける。

感情的な、喜怒哀楽が激しい人からは離れるべき、らしい。。。

対して、
自分は子どもたちを、どう育てたんだったけ?

振り返ってみると、
直感的、行き当たりばったりではあったけれど

絶対に譲れないものというか、信念というかがいくつかあって、
一貫した態度で臨んでいたことが多かったように思うし

自分ではできなかった習慣づけや、途中で学んだことを取り入れ
常にアップデートしながら進んでこれたのかな?とも思った。


一番大事にしていたこと、それは

どんな時も変わらず
私らしく、”ばか正直であること”だ。

自身の育った環境、
周囲にいる”正解の大人たち”に疑問を抱いて育ってきた経験から

①子どもたちに嘘偽りなく、正面から向き合いたい
②「子どもだから教えてもらえない」と感じる機会を与えたくないので
 (性やすごく残虐なこと以外の)ほとんどの全てのことを共有する
感情をさらけ出す


①について。
信頼できない大人になんて、誰だってなりたくないんだ。
だから、嘘は絶対につかない。約束を守る。
いいと思わない時に、むだに褒めない。
その代わり、いいと思ったことは徹底的に、褒める!

いけないこと・危ないことは、できるだけその時に
目を見て、真剣に叱る。
その代わり、周りの大人に注意されても
子供に非がないと思ったら、徹底的に、味方になる。

適当に会話をしない。
目を見て、しっかりと考えて答える。
(これはたくさん喋る子だったので、母の気力の消耗が半端なかった)

②について。
ママ友夫婦に注意されたことがある。
「子どもの前でお金の話なんて、しない方がいいだろう」

しかし
私は育ってくる過程で、この”お金”をもっと、教えてほしかった
そうすることで生活力ももっと育っていただろうし、
現代においては、投資について学ぶのも、小さいころからでいいと思っている。
そして、進学の時だ。
「有名私立大学以外の私立大学は、出してあげられないから」
「専門学校は行かせたくないけれど、どうしてもと言うのであれば2年までのところにしなさい」、とか。
当時私の周囲には、大人の決めた様々なルールがあって
やりたいことに寄り添うというよりは、
”有名な頭のいい大学に行った方が世間的にもいい”
それ以外は不正解というものだった。


やりたい事に近づく道を一緒に探そうというのでなければ
具体的にどのくらいの予算で進学をしたらいいのか?
得意だった美術大学に行くことができないなら、どこに進めばいいんだろう?

音楽はずっとやっていたし、「音大ならいいよ」と言われていたが
私は音楽の先生やピアニストになることに、全く興味が湧かなかった。

両親や親せきたちの、
その基準とか価値観は、いったいどこから生まれているんだろう?

例えば、
・美術=× / 音楽=〇
・服飾関係=× / 美容師=〇

謎だらけだった。

今思えば、より認知度のあるところの学歴を持ち
世間に知られている職業に就けば生活に困らないだろうという
一種の愛情だったのか?と捉えているが

周りに適応しづらい性質で、いつの間にか周りの友達の方向性や行きたい大学・学部が決まってしまっていた、というのもあるけれど

周りの大人たちの考えていること、言っていることが理解できなくて
考えることすら億劫で、よく話さないまま諦めたことが、山ほどあった。

人と接することよりも、何かを創ることの方向に進みたかった私にとって
前に進むな、と言われているように感じられてならなかった。

そんな経験から、気づいたら
自分は絶対にあらゆることを子どもと共有しようという方針になっていた。

③について。
人間はどんな人だって、一人の人間なんだってことがわかるようになってほしかった。

いくら眠たくて機嫌が悪いからって、
ひっかいたり噛みついたりしたら、親だって痛いんだ。
ひっかかれた時にひっかいたらさすがに子どもが傷ついてしまうのでやらないが、噛みついた時は少し、甘噛みしてみたりして、痛さを伝えた。

悲しいときは悲しいし、どうしようもなく落ち込んだり、
大人にだってコントロールできないことなんていくらでもある。

嬉しいときは一緒に喜んだり、踊ったり、大いに喜ぶ。
(家の外に出たらそういうキャラではないけれど、夫・子どもの前では自分をさらけ出すようにしていた)

そうして、我が家には未だに、隠し事はない。

・・・夫や子どもがどうなのかは知らないけれど、
自分に後ろめたさがなければ、それでいいのだ。

離れて暮らしていても、家族LINEで近況を報告したり

どうしようもなく悲しい気分の時や、悩んだ時にも、連絡が来る。

夫や私の当時よりも付き合いが上手で、みんな仲良くやっているらしい。
さすが、現代っ子たちだなぁ。と思ったり。


AIが発達した現代。

”正解”を行き過ぎ、泣いても怒っても、失敗しても”不正解”

日々現況は変わっているのに、人間だけが変われない。

感情を抑えること、周りの情勢を気にしたり・失敗を恐れることで
新しいことに挑戦できない、そんな景色もいっぱい見てきた。

そんな大人って、もはやAIよりつまらないのではないだろうか?

でもね、人間や動物には、
せっかく喜怒哀楽という機能が備わっているんだから

ぜひ、我が子たちには、失敗や周りなんて恐れずに
人間らしく、自分らしく、おもしろい人生を突き進んでほしいものだなぁ。

と考えた週末。


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