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ふっと消えるような自由

 いいカフェには、いい本がある

 そう思いませんか?センスの良さそうなカフェをめぐると、すみっこに小さな本棚がある。ん、感じる感じる、いい本の空気感を。

 先週末、下北沢(ほとんど行かないエリア)のとなり駅近くの珈琲屋さんに行きました。名前は「グラウベルコーヒー」。

 コーヒー焙煎士として著名らしい方のお店。金曜と土曜の午後しか開いていない。明るくシンプルで木を基調とした清潔感のあるお店。

 私は深煎りが好きで酸味が苦手だと伝えるとエチオピアのナチュラルを紹介してくれました。外は暑かったけど、しっかり味わいたいのでホットにした。

 店内には窓から外が見える席が2つしかない。私は本棚に近い椅子に座ってコーヒーを楽しみながら、本棚の方をチラチラ。

 予想通り、私の趣味に合う、詩集や珈琲エッセイ、旅の本があります。

 だいたい、珈琲が好きでカフェに入る人は、本棚のことはあまり意識しないかも知れない。でも、本の存在はカフェには欠かせないと思います。

 その中で珈琲のエッセイ本を何冊か書いている川口葉子さんが気になり、あとで図書館から借りて読みました。

 『喫茶人 かく語りき~言葉で旅する喫茶店』(実業之日本社)


 街角の喫茶店でコーヒーを淹れている達人たちの言葉を紹介した何とも味わい深いエッセイです(達人たちの言葉は本題ではないので、いずれ書きます)。

 川口さんはこれまでに多くのカフェについてのエッセイ集を出していますが、その中の一冊のまえがきに次のように記しています。

カフェは街の猫のようなもの。ある日急に思いがけない路地に現れて、散策者を誘います。愛嬌たっぷりの猫。つれない猫。・・・誘われるままに腰をおろして猫と一緒に街を眺めると、歩行するだけでは見えない風景が見えてきます。
けれども、猫はいつかふっと姿を消してしまうもの。・・・別れたと気づかずに別れてしまったものたち。

 街中でふっと出会うと、なぜか誘われる。その空間は自由で何をしてもいい。お腹の具合とは関係なく、ブラックコーヒーを注文(もちろん、スウィーツもね)、持参していた本の頁を繰る。

 ああ、至福だなー。

 猫とも偶然出会うことが多い(近年は野良猫は減っていますが)。猫を見かけると、やはり近寄ってしまう。でも、近づきすぎると逃げていく。

 街中のカフェと猫。どちらも、その指定席はない。どこにあっても、どこにいてもおかしくない存在

 都市は人間が作ったもの。ここは役所、ここは住宅地などなど、あるべき場所が決まっている。

 でも、カフェは違う。街中の意識されない、忘れられた場所にこそ、ふさわしい。街中に指定席などない。だから人はふーと惹きつけられるし、その空間は自由に満ちている
 
 最近のことですが、ちょっと気になっていた喫茶店がずっと閉店しています。シャッターが下りていて、知らない人が前を通っても、かつて喫茶店があったなんて思わないでしょう。

 喫茶店はふっと現れ、ふっと消える(ような存在)。

 だから自由

 実は今の私は猫と暮らしている。その猫はもう15歳くらいなのでご高齢。もともと東京の下町で保護されたのを家で引き取ったのです。

 その後、うちの引越し人生に付き合って、沖縄➡京都➡東京と転々としてきました。もともと2匹いて、もう1匹は京都にいた時にあの世に旅立ちました(野良の時、人間にいじめられたのか、警戒心が強く、シャーシャーと威嚇していましたが、子どもの愛情を受けてまるくなった)。

 いまいる猫はずっと家猫なので外出はできません。それが幸せなのかどうか、私にはわかりません。昔の猫は気ままに出たり入ったりと自由でした。でも今では交通事故の危険性やら、家で飼うことが推奨されています。

 猫から自由を奪うことは街中での偶然の出会いがなくなっていくということ。それは私たちにとっても自由を一つ失うこと。とても悲しいことのように感じます。

 カフェの場所が指定されたとしたら、ぞっとします。

 自由を感じられる存在としてのカフェと猫

 なくてはならない存在ですよね。


 


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