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歩んできた人生の道のり。ココロ編。

ぼくらはみんなiPhoneみたいなもの。

工場出荷時の性能は同じ。

どんなアプリをインストールしてゆくかで

異なる存在になっていく。


心身の在り方から観た人間という存在。

工場出荷時は体癖というカラダにくっついている感受性が基本性能としてあるだけ。

ぼくらは最初は言葉すらインストールされていないものね。


生まれ落ちた家庭、親の元でこの世界で歩み始める。

一番身近に耳にするのが親の言葉たち。

環境によって世界を眺めるフィルターが構築されていく。

フィルターというのは脳内の会話と言ってもいい。



アメリカンヒストリーXという映画がある。

20年以上前に観たんだけど、

よかったなぁという観終わった感覚しか残っていなくて

ストーリーも記憶にないのに唯一覚えているシーンがある。

白人至上主義者である主人公が

どうして出来上がってしまったのか瞬時に理解させてくれたシーン。

それは彼が育った食卓の風景。

父親が黒人を蔑みバカにする言動がいつもある食卓だった。


だから束縛が激しい親の元で育つと

コミニケーションがすべて束縛に向かう言葉かけになる。

虐待をする親の元で育つと

虐待を自分もしてしまう人が多いのが不思議だった。

自分が苦しんだコミニケーションをなぜ

自らも行ってしまうのか。


職場で出会ったその女性は

不信、束縛というコミニケーションに耐え切れず

親元を飛び出して上京してきた人だった。

なのに、彼女は親友という距離感になると

突然、束縛をしたり

激しく相手をディスったりする言葉をかけ始める。


それを間近で目撃した時に驚いた。

え~~~~

なんの変態プレイなのかと、ドン引きした。


そしてアメリカンヒストリーXを思い出した。

自分が憎んでいるコミニケーションなのに

不信というコミニケーションしか知らないがために

憎んでいるコミニケーションを自分が行なってしまっているという

悲しい連鎖。

これこそが

目に見えるカルマ(業)なんじゃないかと。


小さな単位では家庭だけど

部活動や会社組織や官僚組織などでも

上級生が偉そうにしたり

上司が偉そうにしたり

変な伝統を連綿とつないでいるグループってある。

ブラックなコミニケーションが染み付いているグループ。


そんな場で違和感を感じずに過ごしていると

自然と自分の脳内の会話も

その場と同質のものとなってしまう。

自分の脳内にブラックなコミニケーションをインストールしてしまったということ。


外野から見てると

なんで気づかないのかなって思ってしまうのだけど

自分がその世界で育って

他の世界を知らないと認識できないんだよね。


赤いフィルターを着けて世界を見ていたら

全てが赤く見えてしまうから

赤くないものを認識できないみたいに。


知らずに装着してしまっているフィルターに

人生において気づくのは

たいてい人生がままならなくて煮詰まって

壁にぶち当たったとき。

パートナーシップや人間関係がうまくいかない

仕事がうまくいかない

病気になってしまった

慢性的に体調が悪い

などなど

いわゆる不幸な出来事たち。


そこで立ち止まって

自分責めと言われるブラックなコミニケーションを

脳内からアンインストールできるかどうかの

ファーストステップは

自分の脳内の会話に気づけるかどうか。


他人から指摘されることもあるし

専門家に相談したり

カラダのメッセージを聴いたり

自分と対話がアンインストールを可能にしてくれる。




※自分の脳内の会話について



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