大人と子ども:大乗と小乗

「大人」になるまで「子」を持つのは望ましくない。

はてさて、どうも何かがおかしい。
「子」を持たずして人はどうやって「大人」になるのだろう?

成人と子ども

「子」を成せるなら少なくとも「成人」であるはずだ。
「成人」であれば「子」を成してよいのではないか?
ーいやいや、そんなわけにはいかんだろ!と思うだろう。しかし、

生き物は「子」を持つことで「親」になる。
「親」になることは「成熟の証」である。
成熟の証を持って初めて「子」は「成体」になる。

成熟とは約束されるものでも予告されるものでもなく、自ら進んで「獲得するもの」ではないのか
自ら選び取った苦難・厄災の源である「子」を育てるという苦悩を通して人は「小人」から「大人」になるのだ

※肉体的成熟度【成人⇔子ども】
※精神的成熟度【大人⇔小人】

つまり、いかなる場合でも「大人」と「子ども」は対比されるべきではない。話のベクトルが違うのだから。


少子化の原因と真の問題性

子どもが少なければ子を持つ「親」も少ないということになる。

その「子」が血縁関係にあるかどうかは問題ではなく、「親」であることが「大人」になるための条件の1つだと言える。

少子化の問題は何も『子が少ない』ことだけではないのだ。

少子化の最大の問題は『小人が大人になるチャンス』そのものが減少することにある

「学校」と「託児所」

『小人が大人になるチャンス』を減少させるものは少子化だけではない。

学校:教育の外部委託:「子」の知的生育を他者に委託すること
託児所:育児の外部委託:「子」の情緒的生育を他者に委託すること

「子」の生育を進んで委託するということは、自らが「大人」になるための「知識と技量」を獲得するチャンスをみすみす逃すということである。

子を持った小人たちが叫ぶ「教育機関の充実」とはつまり「年老いた小人」を増やすことにもつながる社会的悪手に他ならないのだ。


昨今のような、負のスパイラルとも言うべき育児体制を作り出した悪の権化こそ、最初に述べた、

「大人」になるまで「子」を持つのは望ましくない。

といういかにもモラリスト的で一見正しそうでありながらも矛盾した、善人の仮面をかぶった鬼のような発言なのである。


モラリスト、リベラリストの言葉は大乗的で大衆受けが良い。

しかし、その優しい甘言の裏に隠されたテーマが

【「無痛文明化」と「自己家畜化」へのすゝめ】


であることは疑いようのない事実である。



「苦労は買ってでもしろ。」「良薬は口に苦し。」

痛みも苦労もあな嬉しや。ドMじゃないよ、鬼畜だよ。


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