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20161222

冬の日の静かな晩に大好きな大好きなもうひとりの母、匡子おばさんが旅立った。
仕事で疲れ果ててもう寝よう限界だ、なんて潜り込んだまだ20時過ぎた位のベッドの中でその報せを聞いた。

泣いて泣いて、翌日は腫れ上がって前もよく見えず油断するとまたボロボロと涙が出てしまうような状態でなんとか目の前の仕事をこなして、有給と交代要員の手配なんかをして。
どうしたの?って心配する周りの人には「オバガナクナッタンデス」って言うのがやっと
母親でもない「オバサン」が亡くなった事"くらい"でそんな状態になってる私を不思議そうに見ていた人もいたようだったけど、私と匡子おばさんの関係を一から説明するなんてとても出来ない
ひとことで説明することも出来ない
だからただ「オバサンガ」って繰り返して言うしかなかった。


具合がよくないのは知っていたけど、なんとなくまだ大丈夫だろうみたいな感じで今の自分の生活を優先させて、東京と石巻で遠いし仕事もあってなんてことを言い訳に会いに行く事もしなかった。
後悔。
後悔ってこういう事を言うんだなと思った。
悔やんでも悔やんでも時間は戻らなくて、ありがとうとか、大丈夫だよ心配しないでって手を握って伝えたかった言葉は届けることができないままになってしまった。

看護師としての看取り。
数え切れないその場面場面を思い返す。
仕事ではあっても思いを込めてその旅立ちを見送ってきた。
だけど…大切な人の旅立ちを見送ることが出来なかった事がただだだ悲しく、むなしく
なんのために看護師になったのかとか、頭の中は自分に対する苛立ちとやりきれなさで満たされて、在りし日の姿を思い出しては涙はとめどなく流れる
なんのために…?
なんのためだったのかな?

私はこれからも、他人の生と死の傍らに寄り添いながら、大切な人のその時に側にはいられない。

石巻には車で帰った。
運転中はなるべく思い出さないように。泣いちゃったら危ないからね。

帰省してからの色々はどう書き綴る事もできないから
すでに「遺体」になってしまった匡子おばさんがいる教会で、神父さんから「明日、お別れの言葉をお願いできるかな?」と言われて、湯たんぽを入れたお布団に潜り込んで、思い出して思い出して泣きながら、泣きながら書いた短い手紙をここに残しておこうかなと思う。




【別れの言葉】


匡子おばさん
私達きょうだいは、「大きいおばさん」「おっきおばちゃん」から「おきょばちゃん、おきょばちゃん」と呼んでいました。
いつもの様に「おきょばちゃん」と呼ばせて下さい。

おきょばちゃん、あなたの旅立ちの報に接したのは、12月22日、早めに入った布団の中でした。
「ああ、そうか」と、比較的冷静に受け止めた気持ちでいましたが、自分が今その時に包まれている"かいまき毛布"が「東京も冬は寒いから」と いつかおきょばちゃんが持たせてくれたものだと思い出した瞬間に、物心もつかない頃からどれだけ私達兄妹を大切にしてくれていたか、思い出が心に溢れ涙が止まらなくなりました。

いつの頃だったかアルバムの中に、東京の美容学校に行っていたという頃の写真を見ました。
華やかで凛として白黒写真なのに深紅の紅が見えるような、まるで薔薇の花のような人だ、と思ったことを思い出します。
実際の私の知るおきょばちゃんは、共働きだった両親の不在時の世話ばかりでなく、平日休日関係なく遠慮なく押しかけて甘える私に嫌な顔ひとつせず迎え入れてくれる、温かく やさしく 太陽へ向かうひまわりのような人でした。

チューリップの咲く春の庭でトクサでおままごとをした事、小麦粉から炒めてチャツネを入れたカレーがすごく美味しくて大好きだった事
語り尽くせない多くの日常のひとコマが、なにもかも昨日の事のようです。

「あれも持っていきなさい」「これも持っていきなさい」と
お菓子や洋服や子どものおもちゃや、時々困ってしまうほどで
自分のことよりも人のことを考えて、そしてその考えを体現しているような人でした。

気が強く頑固であった一面にも、その発する言葉には常に他者を深く思う心が寄り添っていたように思います。

小さな頃から末っ子で甘えん坊の私は、二十歳になっても三十歳になっても、会う度にいつも抱きしめてもらいました。
近年は会う度にその身体はすこしづつ小さくなっていくようでしたが、心に伝わってくるやさしさと温もりは、いつも大きく温かく私を包んでくれました。

この夏に帰省した折り 抱きしめたのが最期とは
いつものように「気をつけて帰りなさい」と送り出してくれたあの日のままの姿で時は止まっています。

昨日、ようやく棺の中に美しく眠るおきょばちゃんに触れ、頬に口づけをすることができました。
本音を言えば、どんなに弱々しくても 息をし温かい身体に触れて口づけて、そして抱きしめて
「ありがとう」と「愛してる」を直接言いたかった。

けれどおきょばちゃん。
あなたはその人生を生きてきた通りに、毅然として自らの生と老いに向き合い、旅立ちの準備をその内なる世界で行っていたのでしょう。
おきょばちゃんはもう重く上手に動かせなくなった乗り物を必要とはせず、新たな街、新たないのちへ移ったのですね。

おきょばちゃんに会えなくてさびしい、さびしい、さびしいと この先の人生できっと何度でも思ってしまうでしょう。
でもいつかのその日に神の御許で会えることを信じているから、今、その向こう岸で、平安の中に微笑むひまわりの笑顔もまた、信じることができるのです。

別れの言葉にかえて、愛と感謝を
心から愛しています。
おきょばちゃん、本当にありがとうございました。

平成28年12月27日
ライサ JUNKO

その年の冬、私の人生で間違いなく一番泣いた。
その時から、私のnoteは止まって
ただの一言も絞り出す言葉がなくなってしまった。
こんなことがありましたって書けたらもしかしたら楽だったのかもしれないけれど、それは出来なかった。
誰かからの慰めとかお悔やみとかよりも、私は自分の心と向き合う必要があったんだなと今では思う。

その当時はもう日常を綴る気持ちにも、何かを紡ぐ気持ちにもなれなくて、ただ時間だけがゆっくりゆっくりと過ぎて沢山の感情を解きほぐしていくのを待つしかなかったので、鍵をかけたツイッターやなんかで一方通行のつぶやきを繰り返して、家族との日常や仕事の忙しさも助けにして、ちょとづつ大丈夫を増やしてきた。

暗い日々じゃなかったよ。
楽しいことも沢山。

それでやっぱり思うことは、人は生きている時に大切にしようということ。至極当たり前のことなんだけど。
そして出来るなら、生きてるときに沢山会いに行って、沢山話をすること。

すごく昔の話だけど、美空ひばりが亡くなった時にね、子供心に凄く不思議だった。
なんで死んでから「すごかった」「素晴らしい歌手だった」って急にテレビが言うのかな?って
あの頃、亡くなる前にテレビで彼女を見る機会はそうなかったから。
死んじゃったから話題になるなんて悲しい。
好きなら生きてる時に思い出したい。
生きてる時に大切にしたい。
そんで「あなたはサイコーだよ」って「大好きだよ」って伝えたい。

私はこれからも、他人の生と死の傍らに寄り添いながら、大切な人のその時に側にいる事は出来ないかもしれない。

だけど、今生きている大切な人たちに、愛を伝えることはできる。
その時が来るまでに、惜しまずに伝えたい。
恥ずかしがらずに抱きしめたい。
どうせする仲直りなら今日のうちに謝ってしまおう。
ごめんねとありがとうを、ちゃんと言葉にする。

おきょばちゃん、そんな感じでいいかな?



そして
「おきょばちゃんがしんじゃった」
そのひとことを言った瞬間に、何もかもを悟って一晩中抱きしめてくれた夫と
その反対側で「大丈夫、だいじょうぶ」って頭を、背中をポンポンと叩いてくれた3人の子どもたちが、わんわん泣く私の側に集まってぎゅうぎゅうになって寝たあの夜のこと。
私は絶対に忘れない。



遠く離れた老いた両親をあと何度抱きしめられるのかと思う。
その日を思うと怖いけど、それは私の問題だもんね。
今生きている日々を、最高に幸せだと思ってもらえるように出来たらいい。
頑張るよ。お父さん、お母さん。
そして大切なひとたち。

私を愛し、守り育ててくれた匡子おばさんは
私の心の中で今また私を強く優しく抱きしめてくれている。
私も強く優しくありたい。
なれるかな?
大丈夫。

やっと少し書けたよ。
読んでくれてありがとう。


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