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ムダに教養がつくかも知れない不定期な雑学講座の連載(講義中は寝ないこと)~世界宗教の基礎知識3「キリスト教」をひもとく              第1講「聖書」の世界 その6

「迷える子羊」のたとえとはなにか

キリスト教の説法では「迷える子羊」というたとえが
しばしば出てきます。

確かにキリスト教においては、
信徒を「羊」、神を「羊飼い」にたとえることが多く見られます。

 プロテスタント系の教会の指導者が「牧師」とよばれるのは
このことに由来しています。

 この「迷える子羊」のたとえはどこから来ているのでしょうか。
それをひもといてみましょう。

 マタイの福音書の18章に、こういうフレーズがあります。

「ある人に100匹の羊があり、その中の1匹が迷いでたとすれば、
その99匹を山に残し、その迷いでた羊1匹を捜しにでないだろうか。
それを見つけたとしたなら。

よく聞きなさい。
迷わないでいる99匹の羊のためよりも、
迷っている1匹のために喜ぶであろう。

このようにこれらの小さなものが滅ぶことは、
神の思うところではないのだ。」

 「迷える子羊」とは、弱くつらい存在であるものこそ、
神に救済されるべき存在である。というたとえです。

 では、「神とはなんなのか?」、
これまで行くと脱線して「ニーチェさん」の領域に行っちゃいますので、
ここまでにしておきます。

これは、現代社会においてよく議論される
永遠の課題でもあります。

それは、「公平」か「効率」かという命題に対する
「資本主義」の課題にも通じる命題です。
「迷える子羊」は、実はこういった
「経済哲学」のうえでも示唆するものがある気がします。

迷える子羊とは、「虐げられた少数者」であるということです。
そして、それはおのが「生まれながらの罪」に気づけないで、
あがいている存在だということです
 
 罪深き事を実感した人こそ救われる立場にあり、
そのためにはおのが罪に向き合い、
心から「悔いる」事であるということが、
そのメインになっています。

 ただその対象が、「律法」に対してなのか、
純粋に「神への信仰」に対してなのかで、
イエスは当時の律法学者たちと意見が分かれることになるわけです。

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善きサマリア人のたとえ

 この逸話は「ルカによる福音書」第10章のなかにあります。
このお話は、他の福音書には載っていません。

 概要では、パリサイ派の律法学者が、
イエスを試そうと、次から次へとイエスに
律法上の「めんどくさい」論議を仕掛けてきます。

 このときのテーマはこうでした。

 律法学者は、永遠の命を得るためには
「汝の隣人を愛することである。」という答えに対し、
「それでは私にとっての隣人とは誰のことか」とたたみかけます。

 それに対して、たとえ話で答えたのが、以下の内容です。

  「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、
強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、
半殺しにしたまま、逃げ去った。

 するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、
この人を見ると、向こう側を通って行った。

 同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、
彼を見ると向こう側を通って行った。

ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、
彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷に
オリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、
自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

翌日、デナリ(銀貨)二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、
『この人を見てやってください。
費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』
と言った。

この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。

彼が言った、

「その人に慈悲深い行いをした人です」。
そこでイエスは言われた、
「あなたも行って同じようにしなさい」。

隣人とはあらかじめ範囲を定められる律法的概念ではなく,
あらゆる差別を乗越えた愛によってつくりだされる関係であるという,
隣人愛の真の意味を明らかにしています。

キリスト教の会派によっては、いろいろな解釈はありますが、
キリスト教の説く「隣人への愛」について理解を深める、
大切な一つの解釈の事例になっています。

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