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どうせなら「東洋思想」の沼にはまってみるか・・。その11

「明」の時代の儒学体系

 宋の時代に確立した「朱子学」は、
異民族支配の元の時代ですらも、中華最大の哲学体系でした。
 君臣の礼を第一としたこの考えは、国粋的な考えとしては、
都合がよかったと考えるべきでしょう。
ですから役人の登用制度である科挙の主要科目となっていました。

 そうなると、本来哲学であった朱子学は、
いわゆる「受験科目」となり、
自ら思索すると言うより「習得する」ものに変化していきました。

この風潮に対し異を唱え、明学としての新しい儒学を提唱したのが、
王陽明でした。

王陽明

龍場の一悟~「知」の解釈の変革

陽明さんは、儒学における
格物致知かくぶつちち」の朱子学的な解釈について疑問を感じました。
 これはどういうことかというと、
朱子学のいう「既成の規範の中にことわりを求める」ことは、
最初からおのれの持つ心を阻害してしまうののではないのか?
と考えたわけです。

 つまり「自分さがし」のようなものかも知れませんね。
世間の規範ばかり気にしてるうちは、
自分の本心を決して満足させうるものではない。
これを「知」とする事は如何なものだろうか。
そう考えたわけです。このことを龍場の一悟りゅうじょうのいちごと呼んでいます。

 陽明さんは、「格物致知かくぶつちち」の解釈を、
ものただして、いたすす」=(物を正すことによって知を生かしきる)
としました。

 この「物」とは、人為的な規範ではなく、
心が純粋に事物や行為に即することである。
ということです。
そしてこのはたらきこそが「理」を生み、
このことが「知」であるとしたわけです。

 誰かが決めた規範に理を見いだすのではなく、
おのれの本心に理を見いだすことである。と説きました。
 雑感ですが、詰め込み教育からゆとり教育へ。
という図式に似ていないわけでもありませんね。
寺脇さんがそこまで考えていたかどうかは想像の域なのですが。

こころのままに

陽明学とは、すなわち「唯心論」

こういった点で陽明学は「性善」の立場をとっていると言うでしょう。
それも孟子の言う本来善というものではなく、
事物に対する純粋な心の動きである。とします。
その点では後天的な善ということになりましょう。
すなわち「知行まなび」の問題であるわけです。

本心から出る知識や行為だけが本心を満足させるので、
本心から生まれる知と行は一体であるとするのが「知行合一ちぎょうごういつ

行為の内容は自己発展の成果であるので、
自分の知識と行為はおなじ物になり、誠である。
ということは本心から生まれた行為こそが誠意である。
と言うわけです。

よく考えると、これって結構重たいですね。

一部の政治家センセにきかせてあげたいな。


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