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片言隻句 05 ~素直に内観~

今に生きる勇在りしものを論語に問いかけてみる。

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「子の曰わく、其の鬼(き)に非ずしてこれを祭るは、諂いなり。義を見て為ざるは、勇なきなり。」

→現代語訳  

先生がいわれた、「わが家の精霊でもないのに祭るのは、へつらいである。(本来祭るべきものではないのだから)。(それと反対に)行うべきことを前にしながら行わないのは、臆病ものである。(ためらって決心がつかないのだから。)」

※鬼:死者の霊のことをさす。

今に生きる勇在りしもの

この文を読んだときに、自分に向けて放たれた言葉のように感じました。義を見て為ざるは、勇なきなり。心の中で何度も反芻し、時間の経過とともにこの文に対する解釈は変化していきました。

初見時の私の解釈では何か目の前で人困っていたり、悪い人を見たときに、勇気を出して助けてあげたり、注意をするというものでした。例えば電車で席を譲るとか。つまり、目の前で起きた物理的体験を直感的に善悪、判断し行動していた。

しかしながら、他に沢山の書物を読み二年後またこの文章を読むと初見時の解釈とは随分変わっていた。どのように変わったかというと、義を見ることが多くなったのです。つまり、何か目の前で起きたことに対してのみ感じていたそれを、日頃の何気ない日常生活にも感じるようになった。物理体験的にも精神体験的にも。

綺麗な花は人を律する

ここでいう精神体験とは現実世界の実在のなかに通念を感じ理性的に、その糸口を通って色んな環境問題や家庭的問題を目撃するようなこと。例えば、道ばたに咲いている花を見る。綺麗な花だと感じる。そこから花の外部環境を理性的さかのぼり、花を育てる、雨、日光、つまり、気候問題に到着する。気候が適した状態でないとこの花は見られなくなってしまう。また、そこで義と遭遇する。こんなようなことです。

このように考えるということがなんになるかといいますと例えば最近、話題の気候変動の問題。この気候変動の問題は気候変動だけ見てはだめなのです。そこのみを注視してしまうと、正義を訴えたしたところでそれは数学的な誤りを正すかのようなエンタメ的な行為になってしまう。そのため、自分が現実に感動した、残したいと思う媒介を通して理性的に気候変動の問題に行かないとそこに本当の正義は生まれないのです。

生まれたなら、デモ活動だけではなく、日常生活のあらゆる物、行動に繋がるはずです。自分の欲を抑えて、大量消費や堕落した生活などできないはずです。しかしそうなっているということは、エンタメ化しているということです。これをに少しでも善くするために、上記のような考え方を身につけることはとても大切だということです。もちろん、活動している皆さんがということではありませんので御了承ください。

#論語 #小林秀雄 #花 #認識 #環境問題 #古典



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