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「聖なる鹿殺し」は視線にまつわるコメディだ。

途中で映画「ミスト」のネタバレもしているので注意。こんな陰鬱な映画について調べるような人間は、「ミスト」の結末も知っているだろうとは思うけど一応。

嫌いな映画だ。しかし面白い部分もあった。
この感想は
①どこが嫌いなのか
②コメディとして面白かった部分
③どうしてコメディとして見ることができるのか
という順で書いていく。③だけ読んでもタイトルの意味は伝わると思う。

クソみたいな映画。

コリンファレルが「は?知らねーよ、俺のせいじゃねーよ」って思えなかったのを、もしくは速攻で1番どうでもいい家族を殺せなかったのを弱さとしてずーっと描いてるだけで退屈。

打開策が作者によって不当に奪われてる感じもムカつく。選択肢を奪われた主人公が当然の結果に至るまでを2時間もかけて見るのはだるすぎる。
マーティンの父親を殺した主人公が、自分の息子を殺すことで話を閉じるのも「そっすか」って感じだった。

子殺しという最終的な着地と、救いのない陰鬱な展開から、鬱映画と名高い「ミスト」を連想する人も多いんじゃないかと思う。
しかし、主人公のとった選択肢がことごとく間違っていた「ミスト」と、初手から選択肢を奪われていた「聖なる鹿殺し」では、表現したい嫌さが全く違うものになっている。
(だからといって別に「ミスト」が好きってわけではないけど)

コリンファレルがマーティンに頼まれて、「???」って顔で脇毛を見せるシーンは面白かった。
しかしこれも、マーティンに対して無防備に自らの急所を晒してしまうコリンファレルの弱さの暗示になってるんだろうな。ここで言われるがままに脇を見せてしまう人間だったから、コリンファレルはつけ込まれてしまったってことを言いたいんだろう。本当にうんざりする。

脇毛を見せようとするコリンファレル。可愛い。

これ以上思い出しても不快になるだけなので、「いい暮らししてる奴らがズタボロになっててスカッとするわ〜^ ^」くらいの、相応の感想で済ませることにする。

満月の夜にマーティンが呪文を唱えながら薬草をすりつぶして、白目剥きながら一家に呪いをかけるシーンを追加してくれたら良かったのにな。(この映画の「理由なき」感が鼻につくから)
それにしてもマーティンはムカつく顔をしていた。
スパゲッティをくちゃくちゃするマーティン。可愛くない。

コメディ映画としてはなかなか。

しかし、面白い部分もあったのは事実だ。

・コリンファレルが弟をなんとか歩かせようと抱え上げてみても、足の甲で床を撫でるだけになって、立たせようとしても「ペチャッ」って音を立てて床に倒れちゃうシーンはめっちゃ面白かった。2回繰り返すのとかマジでウケる。痛ましすぎる。

・家族がコリンファレルに媚びる展開の嫌な感じはめちゃめちゃ良い。
弟の、自分で切ったが故に変な髪型になっちゃってるのとか、媚びが主人公には見透かされてて、でも弟自身は多分見透かされてるとは気付いてないのとかが痛ましすぎて良い。歩けないが故に這いずってるのもGood 
妻も、たわいない仕草だったが故に完璧なポーズだったのが、切迫した状況の中で媚びとして必殺技的に行われるとこんなにも見るに耐えないのかと感心した。明かり消されててワロタ。

・コリンファレルが目隠ししてクルクル回るシーンもウケた。3発でよく当てたな。サイコロとかで決める方が賢いと思うけど、自分が家族を殺す瞬間を直視したくないんだろうな。(撃たれた弟が即死する辺りに都合の良さは感じる)

・一件落着した後の、不可逆に変容してしまった家族もまあ面白いなとは思った。父親は家族を一方的に選んだ男になってしまった(それすらも出来なかったけど)し、母親は「子供は代替可能である」とぶっちゃけてしまった。姉は家族をこんな状況においやったマーティンに媚びていた。

・家族が食事をしているレストランに、マーティンがやって来た。ガン見するマーティンに、視線を向けられない両親、ガン見し返す姉。そして姉と向かい合ってすわっている両親は、姉がガン見してることに気付いている。
ラストシーンのこの視線の(非)交錯もすごい良かった。(店を出る前に母親がマーティンを睨むのは浅くね?と思ってしまった。自分を純粋な被害者だと思ってるってことか?)

列挙してみたら意外と面白い部分が多かった。必死な人間の滑稽さが上手く描かれていたように思う。
ブラックコメディとしてみればかなり面白いので、友達と一緒にギャハギャハ笑いながらみるのが正解じゃないかという気がする。
悲劇の中に突き落とされる主人公は、はたから見るとただの道化だ。というか、主人公は自ら道化になろうとしていた。

視線と道化。

「近くで見ると悲劇でも、遠くから見れば喜劇」
チャップリンのこの言葉は、この映画にも適用できる。今からそれについて説明する。

コリンファレルはずっと要らない家族を選ぶ責任から逃げていた。そして責任を持たない者とはつまり道化だ。
マーティンや家族からの視線に耐えることのできなかったコリンファレルは、自ら道化になることを選んだと言える。どういうことか。

かつて、人を羨んだり憎んだりする視線には力があると考えられていた。それゆえに、羨まれも憎まれもしない道化は、そういった邪な視線を避ける存在として貴族のそばに置かれていた。(補足1)
なので、自らを無力な存在として貶めることで視線から逃れようとするコリンファレルは、主人を持たない道化だと言えるということだ。

補足1
この論文を参考に使いました。まとまってて面白いのでオススメ。
『道化のコンセプト』小野 昌
https://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-KJ00000110629.pdf

道化になったコリンファレルの言葉からは重さが剥奪されている。なので映画の終盤、目から血を流して今にも死にそうな弟が、学校にいる友達の話をして、死にたくないと懇願するのに対しても「友達がいるのは良いことだ」などとトンチンカンな返事しかできない。
その後、いよいよ1人を殺さなければならなくなったときに、家族からの視線に怯え、家族を見てしまうことにも怯え、目隠しをした家族の中心で、自身も目隠しをしてクルクル回るコリンファレルの姿は道化そのものだった。
そして、道化が主役を務める物語は喜劇と相場が決まっている。

人生のメリーゴーランド。

何はともあれ復讐できてよかったね、マーティン。

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