「短編小説」チャンピオンだよ!
事件を起こして逃亡したプロボクサー、富樫巧。
しかし、それには事情があった――。
文字数:約8000。読書時間目安:14分弱。
小説投稿サイト「エブリスタ」に公開中の「First challenge」を改題し、多少手を加えています。
1 富樫巧 逃亡
目を覚ますと、すでに明け方になっていた。遠くの空が白んできている。
富樫巧は、慌てて上体を起こした。
狭く汚い公園のベンチだ。逃げまわってたどり着き、一休みするために腰掛けたのだが、つい寝入ってしまったらしい。
まいったな、と両手で顔を覆おうとして止まる。どちらの拳にも血がついていた。
公園の端に小さなトイレがある。ゆっくりと立ち上がり、そこへ行って手を洗った。ついでに顔も洗う。無理矢理目を覚まさせた。
トイレを出て、辺りを見まわす。
公園だけではない。街全体が汚くて狭くて、ごみごみしている。いわゆるドヤ街に紛れ込んできたらしい。
安宿や薄汚れた飲み屋が建ち並ぶそこらの路上に、座り込んで寝ている者達もいた。
離れた場所には段ボールハウスもある。ホームレスが住みついてもいるのだろう。
まあ、いいや。こういう街の方が隠れやすいだろう……。
ふう、と溜息をつく富樫。昨夜のことを思い出した。
チンピラみたいな連中を5人、叩きのめした。たぶん皆、大ケガをしているだろう。
プロが素人に拳を使っちまった。もう、終わりかな……。
2 森野那美 苦悩
森野那美が高校の正門を抜け、校舎に向かっていると、数名の女子高生が近づいてきた。
ハッとなり、身構える。
「那美、あんた、一昨日の夜の亮次達がやられた件、一枚噛んでるんだろ?」
彼女たちのリーダー格である田畑利香が、問い詰めるように言う。
「知らない……」と目を背ける那美。
更に睨みつけてくる利香。他の生徒達が、那美を取り囲むようにする。
那美は彼女たちに、数ヶ月前からいじめを受けていた。
最初は那美の方も強気で、毅然とした態度でいられた。しかし、利香は狡猾でもあり、まわりの者達を脅したりしながら、次第に孤立させていった。
一昨日の夜は、無理矢理呼び出され、亮次という悪い評判が多い男のグループにひき会わされた。
亮次は数年前にこの高校を退学となったものの、今でも不良グループを裏で操るような札付きのワルだった。しかも、父親が市会議員を務めており、多少の悪さをしてもその権力でうやむやにしてしまう、という噂も流れていた。
「亮次も他の連中も、大ケガして病院へかつぎ込まれた。傷害事件の被害者っていうことで警察にも調べられてる。あんたのことは誰も何も言わないから、あのことは黙ってなよ」
言い含めるような口調の利香。那美は思わず睨み返してしまう。
「何だよ、その目は?」
取り巻きの一人が那美の肩を押す。利香がわざとらしく止めた。
「亮次達をやったヤツの事は、知らないのか?」
「知らない……」
本当に知らない人だった。その後の報道で、プロボクサーの富樫巧という人だと聞いた。
「じゃあ、いいや……」
利香が去って行く。取り巻きの連中も続いた。
私は、どうすればいいんだろう……?
那美はただ佇むことしかできなかった。
3 富樫巧 潜伏
この街にたどり着いて最初に寝込んでいた公園のベンチに、今日も座る富樫。
ふう、と一息ついた。
3日経ったが、警察の手はまだここまでは来ていない。
目立たないところに段ボールハウスを造って寝泊まりしていた。所持金はすでに千円を切っている。ポケットの中には小銭がジャラジャラとしていた。日雇いの仕事でもすればいいのかもしれないが、そうするとすぐに身元がばれて警察に捕まるだろう。
それでもいいかな……?
そんな気もしてきた。自暴自棄になっていた時に、あの事件。流れは悪い方に向かっている。
俺の人生なんて、こんなものだったのかもしれない……。
空を見上げて大きく息を吐いた時、数名が近づいてくる足音が聞こえた。目をやると、ホームレスらしい男達がこちらを見ている。
「なにか?」
戸惑いながら訊く富樫。
「あんた、富樫巧だろ?」一人が代表して言った。「プロボクサーで、傷害事件を起こして逃げている……」
ギクリ、とした。
男はスポーツ新聞を差し出した。見ると、自分の顔写真が大きく載っている。
9月8日夜、横浜市港西区の工事現場付近で、男性5人が血まみれになって倒れているのが発見された。皆、鼻や顎、肋骨等を折る重傷だった。被害者や走り去る男を見たという目撃者の証言から、犯人は富樫巧20歳。プロボクシング・ライト級の選手である事が確認され、警察が行方を追っている――。
そんな記事が書かれていた。
「警戒せんでもいいよ。タレ込んだりはしない。ただ、やっかいごとに巻き込まれるのは嫌いなんだ。こんな街だが、騒動とかなしで過ごしたい。警察とも別に対立しているわけじゃない。聞き込みとかされたら、隠しだてはできないよ」
「ですよねぇ……」
溜息混じりに応える富樫。
「逃げまわっていてもいずれ捕まると思う。できればそれは、この街じゃない方がいいんだがね。追い出すつもりはないけど、ここの連中に迷惑はかけんでくれよ」
富樫がガックリと項垂れていると、彼らは「じゃあ」と言い残し去って行った。
「あーあ、言われちゃったねぇ。まあ、連中の気持ちもわからなくないけどね」
間延びしたような声がかかり、富樫は顔を上げる。
別のホームレスらしき男が立っていた。
「この街にこだわらないなら、行き場所はたくさんあるから、教えてやってもいいよ。でもさ、あんたまだ若いし、やり直しはいくらでもきくと思うんだがなぁ。俺、警察関係者に知り合いも多いんだよ。なんなら紹介してやるけど?」
「いや、それはまだ今は……」戸惑い、なんと応えていいかわからなくなった。「あんたは?」
「俺? ここらから本牧あたりにかけてウロウロしている者だよ。気障男って呼ばれてる」
「気障男?」
「洒落たことばっかり言うから、やっかみかな?」
いたずらっぽく笑う気障男。富樫の横に腰を下ろした。缶コーヒーを一つさし出してくる。ありがたくいただくことにした。
「もうどうでもいい、っていうような雰囲気になってるけど、どうしたんだい、いったい?」
「う、うん、まあ、その……」
なんとなく人を緩ませるようなところのある男だった。何かがほどけていくように、富樫は話し始めた。
「俺、子供の頃、両親が続けざまに死んじまってさ。どっちも病気。お袋が先で、なんかその後気落ちしたのか、親父が追うようにして。で、施設で育ったんだけど、そこでやってたボクシングが面白くてさ。もう、俺にはこれしかないな、なんて思ってさ……」
「強かったらしいねぇ。デビュー以来負けなしの連勝でしょ? 東日本の新人王一歩手前でケガしちゃったのが残念だけど」
言われて俯く富樫。
「そう。拳を骨折しちゃったんだ。治療が長引いて、その間にうちのジムの会長が病気して引退することになって、閉鎖っていう流れでさ。他のジムへっていう話もあったんだけど、なんか移籍料とか何とかでゴタゴタもして、面倒くさくなって。でも、ケガして試合から遠ざかっている身では何も言えなくてさ……」
ケガはもうほとんど治っていた。しかし、長いブランクがあったところにジムのゴタゴタ。イヤになりかけた時に、あの出来事があった。
「なんで傷害事件なんか起こしちゃったの? 何かワケがあるんでしょ?」
気障男がこちらをのぞき込むようにして訊いてきた。
「うーん」と口籠もってしまった。「街歩いてたら、あの連中が因縁つけてきたんだよ。変な工事現場に引きずり込まれたんで、仕方なく……」
「相手が悪いなら、それこそ早く出頭した方がいいんじゃない? 遅くなればなるほど、心証悪くなっちゃうよ」
「そうだよなぁ……」
深く溜息をつく富樫。空を見上げると、太陽に怒られているような気分になった。
4 森野那美 困惑
授業が終わり、帰宅の途につく那美。
静かな郊外の道を歩いていると、不意に男性が一人近づいてきた。穏やかな表情の紳士だ。
「森野那美さん、ですね?」
「そうですけど?」
立ち止まり、警戒の視線を向けながら応える那美。
「私は、佐島康輔氏の顧問弁護士をしている、谷口和夫という者です」
「佐島康輔?」
確か、市会議員だ。もしかして……?
「佐島亮次さんの父親です」
やっぱり、と息を呑む。
「あなたは、高校でいじめを受けていたそうですね。今、亮次さんを通じて、いじめをしていた学生達に注意がいっているはずです。あなたに酷いことをしないように、と」
那美はキッと谷口を睨みつけた。亮次がいるから、利香達は学校で幅を利かせているのだ。今更そんなことを言ってくるとは、何か狙いがあるに違いない。
「失礼します」
怒り、不安、つらさ、あらゆるマイナスの思いが交錯し、気持ちが乱れてしまいそうだった。那美は堪えきれず、立ち去ろうとした。
「お待ちください。これを受けとっていただきたい」
谷口が前に立ちふさがり、那美の手に無理矢理茶封筒を握らせた。厚い。
「何ですか、これは?」
「あの夜何があったのか、あなたは何も知らない。あなたはあの場所にいなかった。そういうことで、お願いします」
谷口が丁寧ながら強い口調で言った。
茶封筒を開けてみると、そこには札束が入っている。おそらく、百万円はあるだろう。
「口止め料、っていうことですか?」
「いえ、お見舞い金とでも思っていただければ」
そう言い残すと、谷口はきびすを返し離れていった。
どうしよう……?
那美は戸惑い、谷口の背中を見ながら佇むことしかできなかった
5 富樫巧 出会い
富樫はまた公園に来ていた。体も心もムズムズする。。ほとんど毎日やっていたトレーニングをここ数日していない。
今更そんなことしてもなぁ……。
そう思いながらも、立ち上がり、軽くシャドー・ボクシングを始めた。次第に熱が入ってくる。
ふと、さっきまで座っていたベンチを見ると、少女がいた。
動きを止める富樫。小学校低学年くらいだろうか? 富樫をジッと見ていたが、目が合うとパチパチと拍手をし始める。
「すごい。チャンピオン、だね?」
少女が言った。
「い、いや、チャンピオンじゃないけど……」
富樫が頭を搔きながら、少女に近づいていく。
そろそろ夕刻だった。こんな時間に、こんな所に……。
「どうしたの? 一人?」
富樫が聞くと、少女は目を伏せた。
「ええと、名前は?」
「悠香……。河合悠香……」
「悠香ちゃんか。どこに住んでるの?」
その質問に、悠香は大きく首を振った。何度も、まるで何かを振り払うかのように。
ん?
富樫は悠香の首筋に、妙な傷痕を見つけた。よく見ると、それは一つではなかった。
「ちょっと、悠香ちゃん、ごめんね」
近づいて確かめる。
これは……!
火傷。おそらくタバコの火を押しつけられたものだ。それ以外に、腕に痣も見られた。
まさか?
「悠香ちゃん、背中も見せてくれないかな?」
少し躊躇う悠香だが、こくりと頷くと、後ろを向いてシャツをあげた。
息を呑む富樫。
背中に複数の痣、そして火傷の痕。
「もう、帰りたくない……」
悠香が俯き、泣き始めた。
富樫はどうしていいかわからず、しばらく見守っていた。
6 富樫巧 焦り
とりあえず富樫の段ボールハウスに連れてくると、悠香は疲れたのか寝入ってしまった。
先ほど、公園で彼女の話を聞いた。
半年前、悠香の両親は事故で亡くなった。
その後、遠い親戚――彼女は会ったこともなかったという――夫婦に引きとられたが、何かあるとお仕置きだと言って叩かれたり、タバコの火を押しつけられたりしたらしい。
辛くなって何度も逃げ出したが、そのたびに連れ戻され、ひどい仕打ちを受けた。
児童手当や遺児となった子を引きとったことで得られる助成金が目当てのようで、お金がもらえるから仕方なくいさせてやってんだ、と言われていたらしい。
かわいそうに……。
そんな毒親の元にいるより、俺みたいに施設に入った方がずっとマシだな。何とかならないかな?
そう思いながらふと悠香を見ると、苦しそうな表情になっていた。顔が赤い。
え? と慌てて額に手をやる。熱い。
ひどい扱いを受けていたから、どこか悪くしたのか? ただ事ではない。息も荒くなっている。
「悠香ちゃん、大丈夫?」
声をかけると、彼女はうっすらと目を開けた。
「本当のお母さんとお父さんのところ、行けるかなぁ……?」
涙を流しながら、震える声で言う悠香。
そんな……。
富樫は悠香を抱き上げた。
「元気になって、うんと幸せになって、それから何十年かしたら自然と会えるから。その方が喜んでくれる。それまでは頑張るんだ」
小さな体から、尋常ではない熱を感じた。早く病院へ行かなければ。
段ボールハウスを出ると、富樫は走り出す。しかし、どこへ行けばいい?
「どうしたの、チャンピオン?」
折良く気障男が通りかかった。
「どこか良い病院、知りませんかっ?」
声を張りあげる富樫。「えっ?」と目を見張る気障男に、大急ぎで事情を説明した。
「わかった。ついてきなっ!」
気障男がそう言って走り出した。
7 富樫巧 怒り
その病院は幹線道路沿いにあった。富樫は気障男に続いて玄関に向かう。胸には悠香を抱きしめていた。
突然、人影が目の前に来る。
「悠香っ! 悠香だろ? おまえ、なんでそいつを抱いてるんだよ?」
若い男女2人連れだった。男の方が問い詰めてくる。
「なんすか? あんた達?」
険しい表情で訊く富樫。気障男も怪訝な顔で立ち止まる。
「私たちの子だよ、それは。あんた何? なんで悠香を抱いてるの? 誘拐かよ?」
女の方が言った。敵意をむき出しにしたような顔だ。
こいつらが……。
富樫は2人を睨みつけた。
「悠香ちゃんは高熱を出して苦しんでる。今、そこの病院へ連れて行くんだ。邪魔しないでくれ」
富樫がそう言うと、男はペッと唾を吐いた。
「解熱剤でも飲ましておけばいいだろう。返せよ、そいつ。まったく、勝手に出て行きやがって」
富樫は一旦、悠香を気障男に託した。彼は大事なものを扱うように彼女を胸に抱く。
「ふざけんなよ、おまえら。悠香ちゃんを虐待していただろう? おまえらに親の資格なんてない。帰れ。この子はもっと良い所に行かせてあげるんだ。こんな小さな子供から、幸せを奪うんじゃないっ!」
叫ぶ富樫。その声が響き渡る。行き交う人々が目を見開いていた。立ち止まる者もいる。
「ふぜけてんのはおまえだ。うざい野郎だよ。死にてぇか?」
男の方がナイフを出した。それを富樫の目の前にかざす。
富樫は慌てなかった。無造作に左手を繰り出す。ジャブだ。それで男の手首を打ち抜くと、ナイフは宙を舞った。
え? と驚く男。後ろで女も目を見張る。
更に富樫が左ジャブを素早く放った。男の顔スレスレ、左右の空間に目にもとまらぬ勢いで何発も。
「チンピラ5人をぶちのめして逃げているボクサーがいる、っていうニュース知ってるか? それ、俺だよ。6人目にしてやろうか?」
睨みつける富樫。男は慌てて後退り、女の手を引いて逃げて行った。
8 森野那美 驚き
那美は横浜の街を彷徨い歩いていた。どうしたらいいのかわからない。
もう、死んじゃってもいいかな?
そんな思いに囚われていた。足取りは重く、生きている感じさえしない。
気がつくと、ちょっと先で騒動が起こっていた。
あれは……?
目を凝らし、その中心にいる男性を見て息を呑む。
あの人だ。確か、富樫巧……。
彼が2人の男女を怒鳴りつけていた。少女を守っているらしい。
指名手配されているのに、あんなに目立ってしまっている。
少女を助けるために……。
那美の目から、自然と涙がこぼれ落ちた。
9 富樫巧 逮捕
手当を受け、悠香は何とか一命を取り留めていた。栄養が足りず、免疫力も衰え、数々の傷からばい菌が入り危険な状態だったらしい。だが、もう大丈夫だ。
静かな病院内。廊下の椅子に座り、ホッと胸をなで下ろす富樫。
しばらくすると、制服姿の警察官が4人、キュッキュッとリノリウムの床に足音を響かせながら、こちらに向かってくる。
「富樫巧だな? 暴行傷害容疑で逮捕する」
一人が言った。手錠を取り出している。
「そうだけど。逃げないから、あの子が目を覚まして元気なのを確認するまで待ってもらえませんか?」
富樫が言うが、警官達は表情を変えない。
「ダメだ。今すぐ連行する」
ガックリと項垂れる。しかし……。
「待ちなさい。手錠の必要はないだろう」
新たな声が後ろからかかった。見ると、初老の紳士が歩み寄ってくる。その横には気障男がいた。
「神奈川県警刑事部捜査一課の立木浩三だ。事情は聞いた。彼のことは、私が責任を持つ」
立木という刑事が言うと、警官達は敬礼して退いていった。
「大丈夫だよ、チャンピオン。この人、良い刑事さんだから」
気障男がウインクしながら言う。
いや、チャンピオンじゃねえし……。
富樫は苦笑するしかなかった。
悠香の病室へ行くと、彼女は寝入っていた。
隣りにある椅子に座る。いつしか富樫もウトウトしてしまった。
目を覚ますと、数時間経ったていたのだろうか、窓の外が白んできた。悠香も起きてこちらを見る。
どちらからともなく、微笑み合っていた。
10 森野那美 傍聴
富樫巧の裁判が始まった。
那美は法廷の傍聴席に来ていた。
検察側証人席には亮次達がいる。近くの傍聴席に、谷口弁護士もいた。
審理は粛々と進む。
富樫の弁護士は、街中で亮次達五人とすれ違い因縁をつけられ、工事現場に連れ込まれて喧嘩になった、と説明していた。
亮次達は、富樫から喧嘩を売られたと訴えている。
プロボクサーである富樫の方が、明らかに不利だった。検察官が彼の行為を強く批判し、厳罰を、と主張していた。
違う、違う、違う……。
何度も首を振る那美。あの日、少女のために怒りをぶつけていた富樫の姿が目に浮かぶ。
黙っていたら、私は一生後悔する――。
そう思い、立ち上がった。
「違います。富樫さんは私を助けてくれたんです。悪くありませんっ!」
気がつくとそう叫んでいた。
室内が騒然となる。
谷口弁護士が睨みつけてきた。しかし那美は、彼に向かって「こんなお金いらないっ!」と手をつけずにいた札束を投げつける。そして、亮次を指さした。
「悪いのは、そっちの人達です。私は、その人達に襲われました。改めて訴えます!」
静粛に、と言う裁判官の声が響いた。
驚いている富樫と目が合う。那美はしっかりと頷いた。
11 森野那美 証言
数日後、改めて裁判が開かれた。
そこで証言する那美。
自分が高校でいじめを受けていたこと、その高校の元生徒である亮次と仲間達に呼び出され、乱暴され、レイプされかけたこと。裸で泣き叫んでいたところを、通りかかった富樫が助けてくれたこと……。
取り乱していた那美は礼も言えず、ただ泣き続けるだけだった。
そんな彼女に、富樫は優しく、逃げるように言った。
「君が襲われたことは黙ってる。だから、安心していいよ。そして、忘れるんだ」
彼は、那美の心の傷のことを慮ってくれた。表沙汰になれば更にショックを受け傷を大きくしてしまうだろうと考え、黙っていてくれたのだ。
室内がシーンとする。
そんな中、一人の少女が立ち上がった。悠香だ。気障男と一緒に傍聴している。義父母達は、説明を受けた立木刑事により虐待の罪で逮捕された。悠香は今、富樫が昔いた施設で暮らしている。
「やっぱり、チャンピオンだよっ!」と叫ぶ悠香。
富樫は照れくさそうにフッと笑った。
12 富樫巧 挑戦
一年半後――。
富樫は横浜アリーナの控え室にいた。バンデージを巻き終わり、時を待つ。
「挑戦者、準備を」と声がかけられ、立ち上がる。
ゴタゴタはあったが、別のジムへ移籍した富樫は連勝を続けていた。
今、初めて世界へ挑戦する――。
控え室を出ると、そこには那美と悠香、気障男がいた。
悠香が「チャンピオンだよ!」と笑った。
「うん」と応える富樫。「ベルト、とってくるよ」
「頑張ってください」と言う那美に笑って頷き、手を上げる気障男とハイタッチする。
そして、リングに向かって歩き出す。
プロボクシング世界ライト級最強の男と戦うために――。
Fin
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