見出し画像

私がどのようにして「死の問題」を解決したか

突然ですが、皆さんは病気になったら、どこへ行きますか?恐らく床屋でも八百屋でもなく病院へ行くはずです。それは医者が病気のプロだと知っているからです。車が故障したら、そば屋でも家具屋でもなくカーディーラーか修理屋へ行くはずです。それは彼らが車のプロだと知っているからです。

あらゆる分野にはその道の専門家がいます。では、もしあなたが「死の問題」に直面したとしたら、どの専門家を訪ねますか?医者でしょうか?科学者でしょうか?それとも哲学者でしょうか?

私は、なぜそうなったのか未だに不思議なのですが、「仏様」というその道のプロ・・・・・・を訪ねることになりました。つまり、宗教にその答えを求めたのです。

こんにちは、東野たまです。今回は、私と宗教の関わりについて書いてみようと思います。2023年は、私の中で大きな宗教的目覚め・・・(心境の変化)が起きた2020年から丸3年が経った節目の年でもあります。私にとって宗教とはどのようなものであるか、この人生でどのような意義があるのかなど、かなり主観的な話になりますが、現時点での「私の立ち位置」の記録としても残しておこうと思い、書くことにしました。教義理解や主張において、おかしな点、不明瞭な点もあるかもしれませんが、あくまで私の実体験をもとに主観的視点で書かれたものということで、ご理解、ご了承いただければ幸いです。

さて、皆さんは「宗教」という言葉から第一に何を想像しますか?

宗教と人間とは、歴史的に観ても切っても切れない関係性でありながら、「科学的根拠がない」「宗教戦争」「洗脳」など、昨今さっこんこの言葉はあまり良いイメージとは結びつかない場合も多いようです。中には「宗教」と聞いただけで、「怪しい」「胡散うさん臭い」というイメージを抱く人や、反射的に嫌悪感を示す人も相当数おられるようです。

宗教に全く縁のない人から観たら、何らかの宗教に深く関わっている人たちは、一緒くたに「何かを盲信しているイタい・・・人」または「何かにすがらなければ生きられない心が弱い人」と映っているのかも知れません。「騙されやすい人」「思い込みが激しい人」「主体性がない人」あるいは、「論理的思考力を欠く人」と思われている場合もありそうです。

私の知人・友人の中にも、口には出さずとも、私がいつも仏教の話ばかりしているので、私のことをそのように観ている方は少なからずおられるでしょう。それはある意味仕方ないことかも知れません。私自身、以前は「宗教=壺買わされる=怪しいモノ」という程度の認識しかありませんでした。「日本」の認識が「Geisha、Fujiyama、Harakiri」のイメージで止まっている欧米人がいるのと同じようなことなのでしょう。

そもそも自分が人生で、ここまで宗教(私の場合、仏教)と深く関わることになるなんて思ってもいませんでした。仏教に出合う前は、「宗教なんてはっきり言って何の役に立つの?」くらいの問いしか正直持ち合わせておりませんでした。それまでの私の人生には、宗教は全く不要・・だったわけですから、宗教に対しての認識もその程度だった、あるいは、その程度でも問題なく生きていけたのでしょう。

さて、「宗教は役に立つのか?」ということで少し考えてみたいと思います。他の宗教がどうかはわかりませんが、少なくとも私が聞かせてもらっている浄土教(浄土真宗)、他力の教えは、何の役にも立ちません。誤解がないように補足しますが、「役に立たない」=「意味がない、意義がない」ということではありません。むしろ浄土教の教えが私に与えた影響は計り知れないものです。私の生命観が180度変わったと言っても過言ではありません。しかし生きる上でそれが具体的に何かの役に立つかと言えば、そうではないということです。

その教えを聞いたからと言って、突然幸運が舞い込んでくるわけでもないですし、立派な人間性・道徳性が育っていくわけでもありません。宗教が人間に果たす役割を考えるとき、それが「役に立つか立たないか」という論点からアプローチしてもなかなか答えは出ないでしょう。逆に、もしその宗教が具体的に何かの役に立つ、あるいは、役に立ったというならば、そもそもそれは本当に宗教・・と呼べるのかと、一度疑ってみたほうが良いかも知れません。

今日、多くの宗教(と呼ばれるもの)は「〇〇したら、こうなります。」という「条件+見返り」のような図式で説かれている場合が多いようです。これは伝統宗教でも新興宗教でも見られることで、例えば、「たくさんお布施をしたら、病気が治ります」とか「良い行いをしたら、天国へ行けます」とか、「このお札を持っていたら、事故にいません」とか、そういったことです。「厄年におはらいをする」「正月に初詣に行く」などもこれに当たります。教義は様々あるのでしょうが、このようなタイプの宗教の信奉者は、総じて、神仏の力で自分が今より良い状態になること、または、今より悪い状態にならないことを目指しているようです。つまり、神仏と取引する・・・・・・・ことで、自分の願望を叶えようというのです。

私も毎年初詣で訪れる神社仏閣で「今年も家族みんなが健やかに幸せに暮らせますように」と手を合わせていました。一見ありふれた正月の風景ですが、今思えば、この行為は明らかに自分の願望成就を僅かな出資(お賽銭)で神仏へ委託している典型と言えるでしょう。このような宗教はいわゆる「迷信」である場合が多く、「幸せになりたい」という人間の根源的要請に答える形で、その信奉者を増やしてきたものと思われます。僅かな望みをかけて宝くじを買う人間心理とどこか似ています。

さて、大乗だいじょう仏教に少し詳しい方であれば、他力の教えも「念仏したら、お浄土に行ける」と「条件+見返り」を説いているではないかと観る人もあるかもしれません。私も以前は、そう思っていました。しかし、それは大きな誤解であり、浄土教では自分の願望成就というような話は一切出てきませんし、神仏と取引することもありません。

まず前提として、浄土教の教義において「〇〇したら」という、こちら側に何らかの条件が求められるということがありません。なので、その条件を満たせば何らかのメリットが得られるということもないわけです。我々が聞かせていただいている教えは、ある意味「ただそうなのだ」という事実だけです。しかしその事実とは、今まで私が聞いたこともなかった事実なのです。それはお経、特に大無量寿経というお経に説かれている真理であり、仏様の目から観た人間の真実です。そして、その真実が紛れもなく私のこの身の事実・・・・・・であると聞かせていただき、うなずかせていただいく。それだけなのです。

たとえ同じ浄土教、浄土真宗、親鸞聖人の名を冠する団体であっても、「信心獲得しんじんぎゃくとくしたら・・・、絶対の幸福になれる・・・」のように、もし何らかの条件がこちら側に求められ、それが達成されたらこうなるというようなことが説かれていたなら、それはそもそも浄土教の教えとは言い難いでしょう。以前は私も、信心をることが浄土往生への条件・・のように考えていました。しかし、そうではありませんでした。浄土教の教えをそのまま・・・・聞かせていただいたら、ただ「南無阿弥陀仏」と念仏となえさせていただく身となるばかりであります。生きる上でそれが何かの役に立つようなこともなければ、自分の願望が成就するようなことも一切ありません。まして「絶対の幸福」という不可解な心理状態を神仏から賜り、狂喜乱舞するようなことはないでしょう。

では宗教とは、一体何のために存在するのでしょうか?

宗教に縁のない人はいます。日本人は特に多いでしょう。事実、人間の生活は、衣食住の基盤さえ整っていれば、宗教と全く関わらなくとも成り立ちます。信仰を持つのも自由、持たないのも自由。私は浄土真宗と出合う前は、完全に無宗教者でした。と言っても、様々宗教を吟味ぎんみした上で「無宗教」を自ら選択したわけではなく、単純に宗教に対して無知であったため、結果、自分を「無宗教」とカテゴライズしていただけです。「無宗教者」というより「宗教無関係者・宗教無関心者」といったほうが正確かも知れません。

宗教は自らの意思で関わりを持つことを選択するというよりは、自分ではどうしようもないえんによって「気がついたらそうなっていた」というケースのほうが多いように思います。私の場合は明らかに後者でした。三十代前半で思いがけず、立て続けに両親の死を経験したことは、私を宗教、特に仏教に向かわせる大きなご縁であったことは間違いありません。様々なご縁によって今私は仏法ぶっぽうを聞かせてもらっている。客観的に観れば、私の意思を超えて、ただそうなった・・・・・・・私を、私自身が発見し、観察しているだけなのです。

日本やアメリカのようないわゆる先進国で暮らしていますと、死は日常生活から最も遠い場所に位置付けられているように感じます。死はできるだけ見たくない、考えたくないというのが人間の本音でしょう。死は多くの人にとって「非日常」であり、起きてほしくない「最も不幸なこと」です。もし誰か身近な人が突然亡くなったら、それを受け入れるのは非常に困難です。私自身、死の前日まで普段通り元気だった母が急死したとき、その事実を受け入れるまで相当な時間がかかりました。「母はもうこの世のどこにもいないのだ……」という深い喪失感に沈み、冷静にその事実を事実として受け止めることができませんでした。あるいは、受け入れたくない気持ちがあったのかも知れません。

一方で、近親者の死は人を宗教に向かわせる最も強い縁とも言えるでしょう。普段はできるだけ見ないよう、触れないように生きていたとしても、「死」は突然人生に降りかかってきます。これは紛れもない現実であると同時に、亡くなった方との関係性が深ければ深いほど、あなたの人生においてとても重要な出来事となります。なぜなら、その方の死を通して、深い悲しみの中、ひとつの問い・・が生まれるからです。その問いには、科学、哲学、感情論、道徳論、その他あらゆる「人智じんち」を総動員させても答えは出ないでしょう。

生死しょうじに対しての人間の最も純粋な問い、それはつまり、「私は一体どこから来て、どこへいくのだろう」という問いです。この問いには、宗教以外では答えられないのです。「死」を目撃するということは、普段は全く棚上げにしているこの問いが、圧倒的リアリティを持って迫ってくるということなのです。進化論では「私」というこの存在の謎・・・・はどうやっても解けないのです。

余談ですが、もし何らかの宗教が本当に宗教と呼べるものかどうかという疑問が浮かんだら、その宗教はそもそもこの人間の「原初の問い」に答えているかを確認すれば良いと思います。宗教は本来、この世をより良く、より豊かに生きるための智恵でもなければ、道徳的指針でも生活規範でもありません。宗教が人間に果たす役割とは、一言で言えば「死の問題の解決」です。

この世でいかに充実した人生を送ろうと、人間最後は必ず死んでしまいます。例えば、ある宗教を信奉することで、生前様々な幸福を享受できた(そう思っていた)としても、最期にはその一切を手離して、死への旅にひとり出発しなければなりません。これはすべての人間に当てはまる、曲げようのない事実です。死によって、家族、友人、財産、思い出、地位、功績など、この世で親しんできたものすべてを失うことになります。死ぬときは文字通り「ひとりぼっち」なのです。

私は父の死に際し、そのことを残酷なまでに見せつけられ、圧倒的な空虚感を味わいました。如何いかなる人生を歩もうと、死はそのすべてを根こそぎ奪い去る。父は自分が目の前で死んで見せることで、この人生の実相を最期に子の私に教えてくれたのかも知れません。死のパワーは圧倒的暴力性を帯びています。死の前では誰も無力なのです。そのことをはっきり知らされたとき、人間に残されるのはただひとつの問いしかありません。それは、「自分は死んだら一体どうなるのだろう?」という問いです。この死の問いに答えていないならば、いかにその宗教が個人の人生や社会全般、時には政治にまで強い影響をもたらすものだとしても、それは本当の宗教・・・・・とは呼べないでしょう。

ある意味、神仏と取引するタイプの宗教で、自分の個人的願望を叶えようという人は、あまり欲が深くない人だと思います。なぜなら彼らは、死によっていずれすべて奪い取られる程度の幸福しか宗教に求めていないからです。私は疑い深く、欲深い人間なので、そんな「死んで消えてしまうような幸せ」では到底納得も満足もできません。

浄土教の教えに触れ、そこで説かれている私の本当の姿を徐々に知らされてくると、私がこの人生で解決しなければならない本当の問題・・・・・が何なのかが見えてきます。人生において一時的に手に入る幸福や豊かさ、充実感や達成感。それらは生きているうちは最上の喜びとも成り得るものですが、すべて死とともに消えていく虚しいものです。私は両親の死を通してそのことをまざまざと見せつけられました。それは、様々な経験を通して幸、不幸を味わい、それに一喜一憂しながら生きて死ぬことが、私がこの世に生まれてきた本当の理由ではないのだ、という二人からの警告だったのかも知れません。

聖徳太子は「世間虚仮唯仏是真せけんこけゆいぶつぜしん」という言葉を残されました。この世のあらゆる物事は空しく、仮のものである。つまり何一つ末通るもの、真実なるものはない。ただ仏の世界だけが真実なのだと。はじめ私はこの言葉の意味が全く理解できませんでした。むしろ自分自身の存在そのものや、私が大切にしているものすべてを否定されているようで、苛立ちさえ覚えました。しかし仏法を聞かせてもらうご縁を得た今は、その通りと頷かざるを得ません。仏法の前に下がらない頭も下げざるを得ない、今風に言うと仏法に「ぐうの音も出ない」ということです。

生老病死しょうろうびょうし四苦八苦しくはっく。仏教の開祖である釈尊しゃくそん(お釈迦様)は、この世は苦しみの世界だと説かれました。この苦しみの世界で、無始むし(始まりもない遠い時間)より様々なごうを造り出しながら、永遠に生死を繰り返し、今も迷い続けているのが私の本当の姿です。いかに今生こんじょうが幸せな人生であったとしても、あるいは、何か偉業を成し後世に名を残したとしても、死んだらそのすべてを失い、また迷い続けていくだけです。しかも我々は、この迷いの世界から永遠に抜け出すことができず、生死の苦しみは終わることがないのです。言葉で書くのは簡単ですが、「終わりがない」ということは冷静に考えてみたら本当に恐ろしいことです。感受性の鋭い人ならば、「終わりがないものの只中に自分がいる」と考えただけで、発狂してもおかしくないでしょう。

仏教では、このように生まれ変わり、死に変わりを永遠に繰り返すことを「輪廻りんね」と呼びます。仏教の目的はこの終わりなき輪廻から抜ける(解脱する)こと、つまり成仏(仏になる)することです。仏教には様々な宗派が存在しておりますが、その目的はみな同じで、仏になることです。私の場合、なぜかわかりませんが、浄土真宗と出合うこととなりました。そもそも自分が仏になるなんて考えたこともありませんでした。しかし気がついたら、仏法を聞き、仏道を歩ませていただいている自分がいました。

浄土真宗と出合ったということは、より具体的に言えば、大無量寿経と出合ったということです。そして、そこにすべて説かれていたのです。私の死の問題と、それがもうすでに解決しているということが。阿弥陀仏による他力、念仏の本願力によって、私はこの人生を終えると同時に仏にならせていただく。様々な仏縁が私を法に導き、大無量寿経と巡り合わせ、そのことを明らかに知らせてくれました。と言うより、阿弥陀仏による救済におまかせする以外に、私には選択肢がなかったことがはっきり知らされたのです。

遠い昔、阿弥陀仏という仏様がいて、その仏様が自ら菩薩となり48の願を建てられました。その願を一つひとつ成就させるため、気の遠くなるほどの長い長い時間、清浄な心で修行をなされ、その修行の功徳を丸ごと「南無阿弥陀仏」のお念仏に込められた。そしてそのお念仏を私が受け取ったとき、そのお念仏の功徳によって私は死ぬと同時に仏にならせていただく。大無量寿経にはそんな話が説かれています。これだけ聞くと、そんな話、科学的根拠もない妄想、あるいは、神話・寓話のたぐいだと一蹴する人もあるでしょう。私も初めは一体何の話だろうと思いました。

多くの現代人にえることですが、科学に代表される「人智」という眼差まなざしでしか物事を考えられない人は、真理から自らを遠ざけていることになかなか気付くことができません。人生で見聞きした知識や教養、経験値がかえって邪魔をするのかも知れません。私自身も仏教のあら探し・・・・を相当やりました。今思えば、蟻が象に無謀な戦いを仕掛けているようなものです。そもそも人間の不完全で偏った知識や認識が、久遠の真理そのものである法に敵うはずがないのです。しかし、感の鋭い人であれば、輪廻、無常、罪悪、因果など仏教のエッセンスに少し触れただけで、仏教に真実が説かれているのではないかという匂い・・を感じ取るはずです。なぜなら、仏教はただの教義ではなく、そこには紛れもなくこの私のこと・・・・・・が説かれているからです。それはつまり、他でもないあなた自身・・・・・のことが仏教では説かれているということなのです。「自分には関係ない」とはどうしても言えないものなのです。

この世で謳歌おうかできる幸せは一時的なものであり、何一つ末通るものはありません。如何いかにこの世で充実した人生を送ろうと、次の生でまた苦しみの世界に戻ってくるだけです。我々の生命の本質は永遠にそれの繰り返しです。なので、この一回の人生で、自分が人間として生まれてきた意義もかえりみず、ただ個人的幸福を追い求め、享楽的に生き、「死んだら自分は一体どうなってしまうんだろう」という極めて重大な疑問を解決しないまま死んでいく人は、大変不幸な人です。最期は死に負け越して・・・・・、訳もわからないまますべてを剝ぎ取られ、人生を虚しく終えることになる人です。反対に、その疑問さえ解決できていたならば、どのような人生を送ろうと、あるいは、すべてを死によって失うことになろうと、その人は一種の深い安心感とともに生き、死んでいけるのです。

浄土真宗で説かれていることは「後生ごしょう一大事いちだいじ」の解決ひとつと言われます。後生の一大事とは簡単に言えば、前述したように「自分はどこから来て、どこへいくのだろう」という問題のことです。どこから来たのかも、そしてどこへいくのかもわからないけれど、自分として生きている自分が今ここにいる。この不思議に驚嘆きょうたんすることが真理の扉への第一歩になるでしょう。現代社会はそういうことをできるだけ人間に考えさせないように周到に設計されているので、なかなかこの不思議を素直に不思議と感じ取ることができないのです。

ここでひとつ質問しますが、皆さんは「自分」のことをどれだけわかっていると思いますか?あるいは、「あなたはどこからきてどこへいくのですか?」という問いに、はっきり答えられますか?お子さんに同じ質問をされたら何と答えますか?

生死しょうじの根本を考えたとき、そもそもその主体となる「自分」とは何であるか?私が私と呼んでいるものの正体は一体何なのか?そんな疑問が生まれてきます。つまり、後生の一大事の解決とは、「自己とは一体何であるか?」という問いを解決することなのです。そのことひとつを解決するのが、私たちがこの世に人間として生まれてきた所詮しょせんなのだと説かれています。

「そんなこと考えても仕方ない、そんなことよりこの世をどう生きるか、この世に何を残せるか、そっちのほうがよっぽど大切なことだ」と言う人もあるでしょう。確かに誰しも人生の時間は限られているので、生きている間に何をするかは正に「生きること」そのものであり、人間にとって最重要課題でありましょう。仏教はそれを軽視するようなことを言っているのではありません。むしろ仏教を聞くことで、今まで知るすべすらなかった「生きること」の本質が見えてくるはずです。

不思議なことですが、現代人の多くはなぜか「死んだら人間終わり」と漠然と捉えているようです。死んだら終わりだからこそ「生きる」舞台はあくまでこの世。この世が勝負。死後のことなんて構ってられない。死ぬことが命の終わりと思っているから、そのような、ある意味乱暴・・な考え方になるのではないでしょうか。しかし、死が終わりならなぜ墓を建てたり、周期的に法事をやったりするのでしょうか。天国や地獄を夢想するのでしょうか。本当に死んだら終わりなら、そんな必要もないはずです。つまり人間は無意識下では、死んだらそれで終わりではない・・・・ということを薄々わかっているのでしょう。

仏法では「縁起」が説かれます。あらゆる現象は縁起によって起こっているわけで、原因と結果が目まぐるしく繰り返されているのです。今私が私として生きていることも何らかの原因と結果の集合体のようなことであり、私の死もこの縁起の中の一出来事に過ぎません。ここではっきり言っておきますが、「死んだら人間終わり」ではありません。ある個体が一度死んだくらいで終われる・・・・ほど生命というものは単純なものではありません。私がこの世に生まれ、今生きているというその事実こそが、私が輪廻の只中にいることを如実に表しているのです。なぜなら、結局生まれてきてしまっているわけですから。

人は縁によって様々な宗教と出合うでしょう。また、全く出合うことなく死んでいく人もあるでしょう。私は幸運にも仏教と出合い、さらに浄土教と出合わせていただきました。そして、私は死んだら念仏の本願力によって、すぐさま仏にならせていただくのだということを知らせていただき、自身の死の問題を解決させていただきました。私にとって自分が死ぬということがもう問題ではなくなったのです。この人生でこれ以上の僥倖ぎょうこうはありません。

もちろん死ぬことは怖いですし、今すぐ死ねと言われて死ねる気はしません。もっとやりたいこともたくさんあります。しかし一方で、死んだらどうなるのだろうという不安は全くありません。死はいつ私に訪れるか私には一切知りようがありません。今夜かもしれないし、5年後かも知れません。たとえいつ死んだとしても、私はすでにこの人生で果たすべき最も大事な目的は果たしたと思っています。死の問題が解決するということは、本当に驚愕きょうがくすべきことなのです。私がこの人生で経験したどんな出来事よりセンセーショナルな出来事であり、死の問題の解決以上に重要なことは、この人生ではないと思っております。そのことに気付くこともなく、虚しく死んでいく人が大半であるという事実こそ、信仰を持たない多くの現代人が抱える最大の不幸だと言えるのではないでしょうか。

さて、何かの問題が解決されるためには、二通りの方法があるようです。まずはその問題に対して明確な答えが示されることで問題が解決するケース。もうひとつは、その問題が最早問題ではなくなる、つまり問題そのものが無効化・・・されることで、結果として問題が解決されるケースです。浄土教で説かれている死の問題の解決は、間違いなく後者でありましょう。

私は未だに自分が死んだらどうなるかということは全く分かりません。そもそも人間にそんなこと分かるはずがないのです。しかし、私の「死の問題」は綺麗さっぱり解決しているのです。これは本当に不思議なことです。もしあなたが、あなた自身の死の問題を真剣に受け止め、解決しようと思い立ったとしたら、人智で解決しようという回り道をせず、仏智に問うてみることをお勧めします。なぜなら、仏教(浄土教)ではすでに死の問題は解決されていることが実に鮮やかに説かれているからです。つまり、死の問題に対して私ができることは人智を総動員させ自ら解決策を模索することではなく、自分では到底解決できない大きな問題であると受け止め、仏智、つまり「大きな智慧」に任せるということだけだったのです。私にとって人生で最も大きな問題を、私ではなく、仏様がもうすでに解決してくれていた。この発見こそ私の人生において、最も不思議で、最も有難いことなのです。

私のように煩悩の海に沈み、仏道修行はおろか、日々悪業あくごうしか造ることができない人間(仏教では凡夫ぼんぶと言います)が、死と同時に浄土往生を果たし仏になる。これ以上不思議なことを私は知りません。仏とは「智慧」と「慈悲」の実行者です。阿弥陀仏は法蔵菩薩という修行者へ自ら身を落とされ「一切の衆生を必ず救う」というがんを建てられました。それは「あらゆる生きとし生けるものを残らず輪廻の苦しみから救い、仏にする」というとてつもなく壮大な願です。そして、その願が成就されないならば自分は仏にはならないとまでおっしゃっているのです。さて、ではその願は成就されたのでしょうか?

前述のように、法蔵菩薩の修行の功徳はすべて南無阿弥陀仏に込められています。南無阿弥陀仏と私の口からお念仏が出て、私の耳に聞かせてもらっているということは、阿弥陀仏の願いを私がそのまま受け取ったということです。つまり、まぎれもなく仏の願はすでに成就しているということです。この願が成就しているということは、あらゆる衆生は仏になるということなのです。「そんなこと言ったって私は救われてないじゃないか」という意見もあるかと思います。あらゆる衆生は今救われつつある(そのプロセスの中にある)と言ったほうが正確かも知れません。私の場合、なぜかわかりませんが、今生でその救いにうことができたのです。

私が死後仏になるということは、この「一切衆生を漏れなく救う」という阿弥陀仏の願に賛同し、参画するということです。私自身が今度はあらゆる衆生を救うはたらき・・・・になるということです。つまり、俗的な言い方をすれば、この世で生きている今より死んでからのほうが断然忙しい・・・わけです。私は死後仏となり、一切衆生を救うはたらきとなる。これまでは永遠に輪廻をさまよい続け、生死の苦しみに暗く沈んでいた私という存在が、仏の救いの「対象者」から、今度は私自身が仏となり救いの「実行者」となるのです。浄土真宗は念仏による浄土往生を説きますが、死後お浄土という天国のようなところに行って、のほほんと暮らすわけではありません。死んだら即、仏となり、衆生救済のはたらきとなってこの娑婆しゃば世界に戻ってくるのです。このような「完全なる循環」が浄土真宗では説かれています。難しい言葉ですが、これを「還相回向げんそうえこう」と言います。

死んだら何もない、無になるだけ。そのように自分で「思い込む」ことはできるかもしれません。しかし、本当に自分の眼前に死がいよいよ迫って来たとき、果たして同じように言えるでしょうか?今まで一度も死んだことがないのに「死んだら無になる」という何を根拠にしているのかもわからない論理で自分を無理やり納得させ、死んでいくことが本当にできるでしょうか?それで本当に悔いはないでしょうか?私はそんな状態で自分が死を迎えることが本当に恐怖でしかありませんでした。このままただ生きて死んでいけば、自分は何のために人間として生まれてきたのかという重大な問いを残したまま人生を終えることになります。そして再び輪廻の底に沈んでいくだけです。それだけは絶対に避けねばならないと思いました。

父の死後、父が書き残していた膨大な数の文章を発見しました。私はそれらを一つひとつ、くまなく読みました。その中に、「仏教にその答えがあるのかもしれない」という言葉を見つけました。父のこの言葉に出遇であわなければ、私はそもそも「死の問題」を問うことすらなく死んでいたかも知れません。父は、自身が生前たどり着けそうでたどり着けなかった真理の在りか・・・を、最期に私に指し示してくれたのかも知れません。

私は、私自身の「死の問題」の解決を自分で取り組んで解決しなければならない問題だと考えていました。だからその答えを自分なりに模索もしました。特に哲学の分野にその答えを求めました。しかし仏法を聞いて、不思議なことに、私の、この私自身の死の問題がすでに私が生まれる前に解決されていたことを知りました。すべては仏様の計画の中にあったということでしょう。だから私は仏様のてのひらで、安心して眠ったまま(凡夫のまま)生き、死んでいくことができます。

自分の中に自分より遥かに大きなものの存在を認め、それにおまかせ・・・・する。南無阿弥陀仏は仏法を知らない人、浄土教に縁がない人にとってはただの言葉でしかないでしょう。むしろ「縁起が悪いので南無阿弥陀仏なんか唱えないでくれ」と思っている人もあるかも知れません。しかし、この南無阿弥陀仏という言葉こそ私がこの世で体感できる真理そのものであり、私の個人的存在意義なんか比にもならないほど強大で遥かなるものなのです。

南無阿弥陀仏を聞き、いずれ自分も南無阿弥陀仏になっていく。「帰命きみょう」とは、命が帰る場所を知っているということでありましょう。その真理を知らせていただいただけで、私は私としてこの世に生まれてきて本当に良かったと思います。なぜなら、今生限りで私はこの輪廻から抜けさせていただくことが決定しているからです。

浄土教の教え通り、私は安心して仏様に私の死の問題を全託(丸投げ)させていただくことになりました。私の死の問題の解決とは、言ってしまえばただそれだけの話であり、全くピンとこない人にはピンとこない話だろうと思います。これを読んで、たった一人でもピンときた人がおられたら幸いです。是非、仏教、浄土教、そして他力信心の世界の扉を開いてみて下さい。世界が一変するはずです。

私は、この世に何をしに来たのかと問われれば、「仏にならせていただく約束を果たしにきた」と答えるでしょう。仏になって大慈悲の「対象者」から「実行者」になる。それ以外にこの輪廻から抜ける道を私は知りません。


南無阿弥陀仏

2023年12月30日 東野たま


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?