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夜と朝の間で

よく晴れた夏の日は、洗濯物がよく乾く。朝干せば、昼過ぎにはもう乾いている。干す前には確かに湿っていた洗濯物が、取り込む時にはパリッと乾いている。太陽の匂いがするふかふかのタオルやTシャツ。私は思いきりそこに顔をうずめる。ふぅ、最高だ。最高に、不思議だ。一体これらの衣類はいつ乾いたのだろう?

「湿っている」と「乾いている」の間に、はっきりとした境界線はない。湿っていた衣類は照りつける夏の日差しの下、いつの間にか乾いているのだ。夜が明けて朝になるのも、日が暮れて夜になるのも、これとよく似ている。夜と朝の間にもはっきりとした境界線はなく、それらはゆっくりと、いつの間にか入れ替わっている。にもかかわらず、私たちの多くは、朝は朝、夜は夜と、まるで朝と夜が全く異なったものであるかのように考えている。

朝にも夜にも本当は「実体」と呼べるようなものはなく、それはあくまで「状態」を示すものでしかない。時刻、光の量、空の色、気温など、一定の条件が満たされることで、それは朝ともなり、夜ともなる。そして、その条件はあくまで人間が取り決めたものだから、朝はもとより朝だったわけでも、夜はもとより夜だったわけでもない。「ある条件」を満たしている「ある状態」を切り取って、私たちはそれを朝と呼んだり、夜と呼んだりしているに過ぎない。自らをして朝になる朝はなく、夜になる夜もない。条件次第で、朝は夜ともなり、夜は朝ともなるのだ。

さて、そのような、本当は不明瞭で朧気なものを私たちは普段どう観ているだろうか。やはり、朝は朝、夜は夜として、確かに存在していると思ってはいないだろうか。これは、言葉を持ち、言葉で認識するという特殊な能力を持つ私たち人間特有の「迷い」とも言えよう。つまり、実際にはありもしないものを、確かに存在しているかのように「錯覚」してしまっているのだ。

その証拠に、「朝とは何ですか?」と問われたら、人は朝が朝であるための条件や、その状態を形容する言葉を列挙し始めることだろう。ちなみに、Wikipediaには以下のように朝が説明されている。

(あさ、あした)とは、陽が昇ってから正午までの間のある程度の範囲の時間帯のこと。時には午前と一致する。一般的に人間はこの時間帯に起き、活動を始める。また、この朝という概念は地球上のほとんどの民族に存在する。

確かにそういうことだろう。しかし、本当にこの説明で、朝の実体を説明したことになるだろうか。もっと純粋に朝とは何なのか、突きつめていく。すると、実はそれを言葉で説明することはできないという事実に気がつくだろう。なぜなら、「朝」に実体はないのだから。それはあくまで概念であり、「朝の概念」を説明することはできても、「朝そのもの」とは何かを言葉で説明することは実質的には不可能なのだ。

朝が何であるかを知る唯一の方法は、朝を「感じる」ことだ。淹れたてのコーヒーから立ち昇る香り。頬にかかる空気の冷たさ。「おはよう」の一言。そこに朝は内在している。朝日を浴びて散歩している犬たちは、概念としての朝なんかではなく、私たちが朝と呼んでいるその何かを、人間より直覚的に感じ取っているはずだ。一度朝という概念に成り下がってしまった朝には、もう朝の所在はどこにもないだろう。

概念とは非常に便利なものであるが、一方で人間は概念の奴隷とも言えよう。普段私たちが何の疑いもなく「在る」と信じているこの世界のあらゆるものの正体は、実はどこまでも疑わしく、甚だ怪しいものなのだ。

例えば「私」というもの。私とは何か、考えてみる。それは私の意識か、私の肉体か。私はいつから「私」なのか・・・。考えれば考えるほどわからなくなってくる。確かに私の意識も肉体も、私の一部ではあるだろう。しかし、どちらも私が「私だと思っているもの」であるために必要な要素や条件でしかない。これが「私そのもの」であるとは到底思えない。

「私とはこの私の命のことだ」
そういう意見も出てきそうである。

「この私の命とはつまり誰の命なのですか?」

「決まっているだろう、この命は私の命だ」

「ではその私の命の所有者であるところの私とは、結局誰なんですか?」

「・・・」

堂々巡りである。しかし、突き詰めればどうしてもこういうことになってしまうのだ。私たちは、他人の言動やパートナーの不貞を疑うことにはめっぽう長けているのに、「私」という存在そのものを疑うことはなかなかできないのだ。



いかがですか?あなたの身の回りにあるもの。あなたが大切にしているもの。嫌っているもの。怖いと思うもの。今一度、考えてみてください。本当にそれらには、実体がありますか?

自分、家族、家、会社、愛、人生、命、死・・・。

本来、あらゆるものはひとつであり、境界線などないのです。仏教ではこれを「真如」と言います。しかし私たちはそこに自ら線を引き、世界をことごとく分断しているのです。そうやって切り取られたあれこれをラベリングして、まるでそれらが実際に存在しているかのように錯覚しているのです。

朝と夜がゆっくりと交替するように、あらゆるものは常に変化しています。私たちがそのことに気づこうが気づくまいが「無常」なのです。本当はなにものにも固定した実体などないのです。それなのに私たちは、そういう実体のないものに囚われ、執着し、奪い合ったり、怒りを抱いたり、傷ついたり、苦しめられたりしているのです。

一度じっくりと考えてみてください。言葉は何のためにあるのか。なぜ人間だけに言葉が与えられているのか。なぜ人間は言葉を捨てられないのか。世界はきっと、あなたがその答えにたどり着く手助けをしてくれるはずです。例えば、言葉を持たない私の愛犬が、いつも私に大切なことをこっそり教えてくれるように・・・ワン!

Thank you for reading and have a nice day😊🌿

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