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自分は何を思うのか

今日の昼間に『ビートたけしのTVタックル』を見ていた。今回は過去30年を振り返る総集編だった。

父親がこの番組を好きだったので、私もかなり昔からTVタックルを見ていたが、総集編では、懐かしさと共に、今だったら間違いなく批判が殺到するような場面が、以前はふつうに放送されていたのだと気づいた。

たとえば、浮気擁護的な話とか、ハマコーさんのやんちゃな発言とか、出演者が思い切り罵倒し合う場面とか。他にもたくさんあったけれど。

現代社会では、番組の内容やドラマのタイトル、CMの演出やストーリーなどあらゆるメディアが批判されることは、もはや日常茶飯事だ。

実際、批判的な気持ちを持つ人は昔からいたのだと思う。家庭内や友人同士ではそんな話も出ていただろう。

でも、インターネットの普及により、SNSなどそういった話を社会で共有できるツールが現れたことで、10年前なら見かけなかった批判も、頻繁に目にするようになった。

今まで知るよしもなかったいち個人の意見が、世の中に反映されるようになったのだ。

それは、いいことなのだろうか、悪いことなのだろうか。

両方の面があるのは間違いないと思うのだが、今回は弊害について考えてみたい。

いち個人の考えを、今までは繋がりのなかった他人も知ることができるようになると、それが同じだったときに安堵が生まれる。それがより広く共感を呼んだとき、それは世間における多数派の意見になる。

世間がそうなったときに、「これは多くの人が批判しているから、きっとよくないものなのだ」とつられて考えてしまう人もいるだろう。

また、自分にとって不愉快だと感じるメディアがあったとして、なぜ不快なのか、本来どうあってほしいかというところまで考えず、大衆の意見に同調してしまうこともあるだろう。

こういったことが繰り返されると、人は自分の頭で考える余地を奪われ、新しい視点を持てなくなったり、不愉快なことに対して自分自身で解決する力が弱くなってしまうのではないかと思う。

多数の批判がメディアを動かすという事実は、社会から謙虚さと寛容さを奪い、またメディア側は「批判されないこと」をベースに創作をするようになることで、ますます個性や特徴のない画一的な社会になっていくのではないかと思う。

もちろん、明らかな犯罪などが、権力者によってうやむやにされそうになったときに、一個人の声が多数派となって社会に影響を与えるという利点もある。

私は、ネットに溢れる声を聞くまえに、まず自分が何を感じたかを大事にしたい。100%他人の意見にひっぱられないということは、もはや物理的にも不可能な気もするけれど、自分の声に耳をすますという訓練を続けることで、自分でものごとを解決する力が養えるのではないかと思っている。

いろいろな方にインタビューをして、それをフリーマガジンにまとめて自費で発行しています。サポートをいただけたら、次回の取材とマガジン作成の費用に使わせていただきます。