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乗馬インストラクター寺本六花さんにお聞きしました。

島根県浜田市にある乗馬クラブ 'かなぎウエスタンライディングパーク' で馬のトレーナー・乗馬インストラクターとして働く寺本六花(てらもと ゆき)さんは、小学生の頃から馬に携わる仕事がしたいという夢を持っていました。38歳になった今、理想の環境で夢を叶えていますが、そこに至るまでにはさまざまな環境や心の変化があり、その過程を伺いました。


ー 山梨に引っ越してきた小学6年生のときに、初めて馬に出会ったんですよね。

はい。引っ越してきた家のすぐそばに乗馬クラブがあったのですが、ある日そこから馬が逃げ出して、家の庭に入って来たんです。オーナーさんが家に謝りに来て、よかったら遊びに来てくださいと言われたことが馬と出会うきっかけになりました。

それから馬が好きになって、そこへ毎日行くようになりました。会員ではなく、ボロ取り(馬の糞掃除)などの雑用をして馬に乗せてもらうという感じで、中学を卒業するまでそこへ通い続けました。

ー 乗馬ってなかなか高額ですもんね。

そうですね。高くてとても普通には乗れなかったので、毎日学校から帰ったら馬に会いに行って掃除をして、夜7時くらいまで馬に乗ってから家に帰るという生活をしていました。

そこからいろいろな馬術にチャレンジしました。中学を卒業した後は地元の大阪に戻って高校でも乗馬を続け、その後は大分県の乗馬クラブに就職しました。

ー 何故大阪から大分に行くことになったんですか?

高校時代に競技会に出ていたとき、その大分の乗馬クラブの方が、私の乗馬を観て絶賛してくれて、是非遊びに来てくださいと言ってくれたんです。

それからは、高校時代の夏休みも冬休みも、その乗馬クラブに居候のような感じで行っていて、最終的にはそこへ就職をしました。

私は当時から、馬と人が一緒に幸せになれるような仕事をしたいと思っていたんです。たとえば、今実際にそういう方がいるのですが、足の不自由な人が馬に乗ったらまた足を手に入れたかのように走れるような。

私たちが大切に育てた馬が人を幸せにしてくれて、その馬もまた人のためになれて喜んでくれるような、そういうことを昔からやりたいと思っていました。

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ただ、乗馬クラブで働き始めると、馬が何時間も酷使されて道具のように扱われていると感じたり、自分の中では納得がいかない部分があったんですね。

私は純粋に馬が好きなのですが、やっていることはひたすら馬を走り回らせたり、また、お金持ちだけを相手にしているような感覚がありました。そうやって何年も過ごしていると、もう乗馬は一般の人に普及することはないなと思うようになりました。

もちろん、そういう営業をすることで自分のお給料も出ていたことは理解しています。でも、私には観光乗馬は向いていないと分かって、仕事として馬に携わるのはもうやめようと思いました。それが22歳くらいのときです。

ー 一度馬のお仕事から離れたんですね。

そうなんです。次は何をしようかなと思ったとき、そういえば小さい頃ケーキ屋で働きたいと思っていたよな~、なんてことをふと思い出して、ハローワークで洋菓子店の募集を見つけて、そこに就職しました。

ー だいぶ意外なところに行きましたね!

地元にいると「寺本さん、なんで馬やめたの?」と言われそうだなと思ったのもあります。大分県から離れたくて、自宅から車で30~40分ほどの、熊本県の県境にある洋菓子店に行くことにしました。

でも就職をしてみたら、実はそのお店、従業員の仲がとても悪かったんですね。嘘をつかれたり舌打ちをされたり、ほんとうに嫌なことがたくさんあって、ここで長く働くのは無理だなと思いました。

そのことを以前からお世話になっていた方に相談したんです。

そうしたらその方に、「そこのトップになるまで辞めたらあかん。下の思いが分かって上に行ける。いじめがあっても絶対辞めるな」と言われたんですね。

その方は、大変な苦労をされて上に登り詰めたご経験があったので、この言葉を聞いてやはり頑張ろうと思い、4年ほど続けました。

そうしたら職場の雰囲気もだんだん改善されて、みんなが私に着いてきてくれるようになって、最終的には私が店長になりました。

その後も店長のやりがいを感じながら、たまに乗馬を楽しんだりもしていて、29歳の頃には恋人に結婚を申し込まれて、もう安泰だなと思っていたんですね。

ー 仕事のジャンルが変わっても、コツコツ続けていくところが素晴らしいですね。でも洋菓子店で順風満帆だったのに、今の生活にどうつながっていくんでしょう。

ある日男性2人が店にやってきて、突然「寺本さんですか?」って聞かれたんです。

その方たちに「私達は島根県から来ました。ある乗馬施設が倒産をして、この先どうしていこうか困っています。来年(2012年)の3月以降、誰も馬を飼ってくれる人がいないんです」と言われました。

そのお2人は、私が今働いている「かなぎウエスタンライディングパーク」を管理していた関係者の方だったんですね。

ー その方たちは、どうやって寺本さんにたどり着いたんですか?

この施設は、私が以前働いていた大分の乗馬クラブをモデルに作っていたので、まずそこへお願に行ったそうなんです。そして、私が当時お世話になっていた社長に「ここには誰もやれる人はいないけど、1人心当たりがある。その子も多分行かないと思うけど」と言われて、私の職場にお願いに来たということでした。

でも当時の私は、そこへ全く行く気にならなかったんですね。

店長として売上を上げていくことに楽しさも覚えていたし、険悪な雰囲気だった職場はスタッフみんなが仲良くなって、チームとしてまとまっていたし、給料もそこそこもらっていて、さらにプロポーズもされていたのに。

島根県の場所も、ぱっと分からなかったですしね。笑

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ー その生活はなかなか捨てられないですよね。

そうですね。だから最初は断ったのですが、その後も、視察にだけでも是非来てほしいと何回もお願いに来られたので、とりあえず一度行ってみることにしたんです。

そして行ってみたら、それまで馬を飼っていた人は、ほぼ素人だったんだなと分かりました。

10頭くらいの年寄り馬はみなガリガリに痩せて元気がなくて、餌も満足に与えらずに、掃除もろくにされておらず、馬の足の裏には蛆虫がたくさん湧いていて。

うわーーっと声が出ました。この子たちはもう日の目を見ることはないのかな、かわいそうだなと思いました。

私が1人で1つの乗馬クラブの飼養管理・調教・接客業務をするなんて到底無理なんですけど、でもあの馬たちを見て心を突き動かされて。

それで2012年の12月から、島根県の浜田市金城町(かなぎちょう)というところに飛びました。

ー そういう経緯があったんですね。思い切りましたね。

でも実際に行ってみたら、まず地域の方にすごく感動したんです。

当時浜田市では、運営できない様々な施設を解体する計画が進んでいて、この施設もその対象として検討されていました。でも町の人が「これがなくなったら私達の町には何もなくなってしまう」と、一生懸命残そうとしていたんです。

何も機能してない、お客さんも来ない、管理者(以前指定管理を請け負っていた会社)は馬を見ていない、でも町の人がどうにかここを残そうと検討して、障がい者の人が働ける場所にしようという案が上がったんです。

金城町にはとても大きい福祉施設があって、そこを経営している'いわみ福祉会’という社会福祉法人が指定管理をしてくれることになったんですね。

そこで私は、いわみ福祉会の職員としてスタートしました。

かなきウエスタンライディングパークは、就労継続支援A型事業所に当たります。A型というのは障がい者のなかでも普通の人に近い人が働ける場所で、今は10人ほどの障がいを持つ方が働いています。

その方たちが毎日馬の世話や環境整備をしてくれるので、私は調教業務に専念することができています。

普通の乗馬クラブだと、馬の世話や環境整備などは、全部トレーナーがするのが普通ですが、ここでは障がい者の方に馬にブラシをかけてもらったり散歩に行ってもらったりしていて、皆で馬を飼っているような感じです。

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中山さんはアニマルセラピーって知っていますか?

ー はい。動物に触れ合うことで癒やされたりするとかいうことですよね。

そうです。馬もホースセラピーと言って、障がい者のセラピーに使われたりもするのですが、逆に馬にとっても障がい者の方って合うんだということを、ここに来て感じたんです。

足の悪い人が馬を引っ張っていると、馬ってその人に合わせようとするんですよ。馬って細やかな気遣いができるんだなということを知って、私のやりたかったのは、こういうことなんじゃないかと思ったんです。

これまでに、私も馬に噛まれたり蹴られたり、様々な怪我をして救急車に乗ったことも何度もあります。でも馬はしっかり向き合ってちゃんと調教や訓練をすれば、悪いこともしないし、障がい者の方にはやさしいし、無限の可能性があるんじゃないかと思っています。馬は私にとって子供みたいなものですね。

そう思ってやってきて、今年で8年目になります。

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ー 馬が足の悪い方に気を遣えるとか、知らなかったですね。驚きです。そうは言っても、救急車に何度も乗ったり?とても大変な仕事ですね。

小学校の卒業式で、卒業生全員が1人ずつ短いスピーチをする場面があったのですが、私は「将来馬のトレーナーになりたいです」と言ったことを今でも覚えています。

私は今、馬のトレーニングもできるし、馬を育てることもそれを売買することもできるようになっているから、夢を叶えたなあと思って。

でも一方で、動物というものに携わっていると、ここまででいいやとは思えないんです。馬をトレーニングしたり、乗馬を教えることに、頂点ってないと思うんですね。だからずっと続けてこれたのかなと思います。

ー 私は成長しても自分の考えというものをなかなか持てなかったので、自分がやりたいことをつらぬいている人を、すごく羨ましいなと感じるんですよね。

私も途中で馬の仕事が嫌いになったこともありました。だから洋菓子店で働いていた時期もありますし。でも、ここまできて、自分は馬に助けてもらっていたんだなと分かりました。

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私も40歳近くになってやっと、自分のものの見方について考えられるようになったと思っています。

最初の職場は、朝4時くらいに出勤して夜10時に帰宅して休みはなく、洋菓子店も朝5時くらいからケーキを焼き始めて夜8時くらいに帰宅して休みも週1回とか、以前はそういういうところで働いていたんですよね。

今は社会福祉法人なので、必ず週2日休んで有給もとらなければいけないので、勤務は朝7時半から16時半なのですが、自分に使える時間がこんなにあるなんて驚きました。世の中の人はこんなふうに過ごしているんだってやっと知ったんですよね。

ー これまでの経験もすごいですが、今は夢を叶えて最高の環境ですね。でも今年は、新型コロナウイルスの影響もいろいろ受けているのではないでしょうか?

私達の職場は、障がい者の方が働く場所であると同時に、養護学校の授業が終わった障がい児の学童保育のような役割もしているので、厚生労働省から休業しないように言われていたんですね。子供の行き場がなくなってしまうので。

なので福祉事業は機能させつつ、乗馬体験などの営業は一時期休業しました。

休業中はいつも馬をかわいがってくれる乗馬の常連さんも来れなくなってしまったので、馬が寂しそうでしたね。馬は学習能力あるので、どれだけ私がそばにいても、「毎週ブラシ掛けてくれたり草をくれる人がなんで来ないのかな」と思っているのが分かるんです。そこが1ヶ月間かわいそうでしたね。

乗馬は教えるときもお客さんとは距離があるし、密になることもないので、営業を再開することができました。再開してみると、もともとお客さんと馬の心がつながっていたら、すぐに元の関係に戻れるんだと分かりました。

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ー 島根県に移住してきたことを、今どう思っていますか。あ、そう言えば、婚約者の方とはどうなったんですか?

当時の婚約者とは、結局遠距離になって別れてしまいましたが、私は島根に来て、ここで死んでもいいなと思うようになりました。

九州にいた頃は、道路で馬に乗っているとあまり良く言われなかったんですよね。金持ちの道楽みたいに思われていて。近くを通る車に意地悪をされたこともありました。

でも島根県に来て、馬の調教でトコトコ歩いていたらおばあちゃんが出てきて、ちょっと拝ましてくれって言われたりして。

ー 馬が神聖なもの、みたいなところがあるんですね。

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そうなんです。「今日はええ天気やから散歩もええね」って、嫌な顔ひとつされなくて、この地域の人達の人間性はそんな感じで、自分も大事にされているような感じがしました。

私がこの町に来たときは「やっと調教師さんが来てくれたー!!」って町を上げて喜ばれて、馬についての講演をしてくれということで、成人式や福祉協議会の講演会や大学など、いろいろな所に呼ばれました。

自分が来たくて来たというより、「よう来てくださった」と言われたほうが私は幸せだなと思いました。歓迎してもらって、人間として認められたという気がしました。

過去にはイベントで事故を起こしてしまったことや、ほんとうにいろいろなことがありましたが、そこからも多くのことを学びました。みんなも私も成長したし、それも経験値だなと思っています。

この先の夢も小学校の頃から変わらず、人と馬が繋がって誰かの生きる力になるように、そして小さな幸せを馬たちと届けることができるといいなと思っています。馬人生、信念を持って、できるところまで走り続けるつもりです。

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かなぎウエスタンライディングパーク
http://www.iwamifukushikai.or.jp/riding/riding_sisetu.html

いろいろな方にインタビューをして、それをフリーマガジンにまとめて自費で発行しています。サポートをいただけたら、次回の取材とマガジン作成の費用に使わせていただきます。