学ぶということ

私は9月からとある塾に務めている。仕事内容としては、一般家庭に対する塾の売り込みである。
私は学問をすることの喜びや楽しさというものを信じている。だから自分のおかげで少しでも多くの子どもが、学ぶことの喜びや楽しさを感じてもらうことができるならば本望である。私は学ぶことが好きだ。そんな私が自らの好きなものを、学問に対する信仰や信念によって、毎日の仕事で活かすことができるのは嬉しい限りだ。
私は学問をすることは人生の喜びであると信じているし、学問をする楽しみが人生で最も大きな感動であることも信じている。そのような私がこれからを生きる子ども達に学びを提案するのは、まさに天職ではなかろうかとも思っている。それにしてもまだ2日間しか勤務していないのに、これほどまでにあれやこれやと胸を踊らせることができるのも、私が中々の空想家であるからだろうか。
それはさておき、私は学問についての好きな話がある。2つあるので、これから述べていきたい。

1つ目は吉田松陰の話である。松陰が獄中に入れられたとき、まるで獄中の囚人共は皆、死んだ魚の目をしていたらしい。囚人は確か10人ほどいたらしいが、全員が生きることに絶望をした目で、ただその場に座り込んで息をしているだけの状態であったらしい。死んだように生きるとは、正にこのような人達を指すのであろう。
獄中の松陰は、牢の中でも学問をすることを決して怠らなかった。松蔭にはいかなるときも、学ぶことが大切であると分かりきっていたのである。むしろ松蔭は自らが獄中にいる今でこそ、学問が必ず必要であると考えたに違いない。そして松蔭は三国志のテキストをどうにか手に入れて、牢屋の中で堂々と三国志の音読を始めたのだった。他の囚人達はきっと松蔭を奇妙な奴であると思ったに違いない。しかし松蔭が何日も音読を続けていると、何と彼の周りには多くの囚人が集まったという。そして夢中に聞き入る者もあれば、分からない箇所を松蔭に質問する者もいる。松蔭はどのような質問であれ真面目に答えて、何度も熱心に解説したらしい。このような獄中生活が続いていくと、囚人共の目にはいつの間にか希望で溢れていた。もう死んだ魚の目をしている者などは一人もいなかった。このとき松蔭は、学問をすることが生きる喜びであるに違いないと考えたはずである。まさしく学問とは知る喜びの経験を積むことであると、私はこの話を聞いて思ったのである。


次に私が述べようと思っている話は、伊藤仁斎という江戸時代の前期に活躍した学者のものである。仁斎は京都で塾を開いており、その塾の月謝で生活をしていたらしい。その塾の生徒は、農民、町人、武士や公家など、様々な種類の位の人々から成っていた。ここで私がおもしろく思ったのが、塾に通っていた町人の話であるのだが、この頃の町人と言うものは金持ちが多く、逆に武士は貧乏をしていたらしい。そして金持ちの町人は、金がある分だけ色々な贅沢をやった。もちろんご馳走や酒を楽しみ、女遊びも随分とやったという。そんなこんなで人生を謳歌していた町人であるが、ある者が仁斎の塾を訪れたとき、学問の楽しみに大いなる感銘を受けて、これは女遊びどころではないぞ。と思ったのであろう。仁斎の塾はたちまち町人の間で噂になったらしく、多くの町人が彼の塾を訪れた。小林秀雄がある講演でこの話をしていたのだが、私はこのときにとても感動した。やはり学問こそが、人生で一番の楽しみであるのだと確信したからである。


私は仕事で塾の営業をする。どうせならば勉強が嫌いである子に、学問の喜びや楽しみを伝えられる大人になりたいものだ。生きる喜びは学問にあると私は信じているし、それを子に伝えることこそが、大人にしかできない役目であると考えている。


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