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「言語化」が常に正義とは限らない。リーダーは「たた佇み、ただ聞く」

「言語化」は極めて重要である。

こう言われて、「そんなことはない」という人は少ないでしょう。事実、言語化が上手く出来ないと、ビジネスやプライベートで困ることは多いですよね。

また、私は「言語化力が高い」と言っていただけることが多く、それもあって「言語化は正であり、言語化出来ることは全てした方が良い」と真に思っていました。

ですが先日、私が尊敬する近内悠太さんの「利他・ケア・傷の倫理学」を読み、自分の考え方には大きな欠点がある、ということを痛感しました。

今回は、「言語化の功罪」と「リーダーに求められる言語化との付き合い方」という観点で綴っていきたいと思います。是非最後までご一読ください。

なぜ「言語化」が必要なのか

皆さんにとっては超当たり前だと思いますが、「言語化が必要である理由」を簡単におさらいしておきましょう。

対「他者」の目線

端的には「ヒトとヒトが、円滑にコミュニケーションするため」と言えるでしょう。

「自分の考えや起きている事象を正しく表現した、相手も分かる言葉」が相互に交わされなければ、「あ、いやそうじゃなくて」といった細かいコミュニケーションコストの積み上がりや、大いなる誤解を元にした甚大なトラブルの発生まで、多様な問題が引き起こされます。

そういったトラブル回避の文脈もあれば、「より遠くの人、より多くの人に届きやすくなる」というポイントもあります。

万人が分かる言葉が発せられれば、その一つの発信が減衰することなく多くの人に届き、その多くの人の心に変化を起こすことが可能になります。

対「自己」の目線

また、この「ヒトとヒト」という言葉は、「自分対自分」とも言い換えられます。

自分のことを正確に理解するには、一旦自分の思考を外出しして、客観的視点から眺める必要があります。そのためには、「今自分の脳内に駆け巡っていること」を正しく表現することが求められます。

大谷翔平選手が用いていた「マンダラチャート」が分かりやすい例ですが、完璧な形で外出しされた「言語」は自分自身を突き動かす強烈なエネルギーにもなります。

「完璧な言語化コミュニケーション」=「注文」?

紛れもなく言語化は「重要」であり、多くの場面において「正」です。そして、私はそれが「常に」正と信じていました。ですが、以下の言葉を読んだときに、心からハッとしました。

”もし、僕らの日常のコミュニケーションが、心を隅々まで言語化し、相手にその通り分かってもらうことを目指したり、自分の希望を輪郭のはっきりした言葉で語り、その通り動いてもらうことであったとしたら、それは、レストランでの客としての「注文」と何が違うのか”

さらに畳みかけられます。

”僕らが生きている心地を感じることが出来たり、その他者を信頼することが出来たりするのは、「十全な言葉で心を切り取ることができず、適切にプレゼンテーション出来ていない”にもかかわらず”、分かってもらえたと感じる」ときではないでしょうか?”

このあと、近内氏は「明確な言葉同士によるコミュニケーションは、"機械的なシステム"であり、簡便で効率的だが、ドライであり、見ず知らずの他人との関係性である」と喝破します。

つまり、私がメンバーに対して「言語化」をしつこく求めている時、それは相互コミュニケーションの温度を下げ、機械的なものにしてしまっていると。。。

私は私をめちゃくちゃウェットな人間だと思っていますし、そう思われることが多い。ですが、一定数「ドライな人間」と思われることもあり、その認識差にいつも不思議な想いを抱いていました。ですが、これを読んでなるほど、と思いました。

私にとっては「言語化する/しない」と「ウェット/ドライ」は決して交わることのない二要素だと思っていましたが、そうではないと。

「言語化を求めること」と「温度を下げること」の間に相関関係がある、ということを認識し、雷で頭を打たれたような感覚を持ちました。

改めて考える、「なぜ言語化を求めるのか」

「言語化しないとそもそも伝わらない」時代に

私が生まれて37年目になりますが、言語化の必要性は日に日に求められるようになったと思います。

それはなぜか。ありふれた言葉で言えば、「多様性」が増したからです。言い換えると「大切なものの種類が増えた」からです。

「14歳からの社会学」で宮台氏が「共通感覚」、本書では近内氏が「大きな物語」と表現していますが、昔は「ヒトが大切にするもの」の種類が少なかったのです。

なので、言語化が完璧でなくとも、「この人の大切にしているものは、きっとAかBだろう」と当たりがつきますし、思考回路も似ているので、阿吽の呼吸で何とかなる。

でも、現代は全く違います。だから言語化させたくなるし、言語化されていないものに気付けない。

でも、それはある意味では「ただの相手への甘え」だと認識を変えました。

「言語化出来ない」は「言語化出来る」に理屈上勝てない

こう言われてみれば、「言語化出来るもの」と「言語化出来ないもの」の両方があって良いし、両方あってこそのコミュニケーションだと思います。

ですが、どう見ても現代は「言語化出来ること」が優位に立っていて、「言語化出来ないこと」は何か良くないことのように見えています。

その理由を考えるときに、山口周氏の名著『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』の一文が参考になります。少し長いですが、引用します。

マネジメントにおける意思決定には「アート」「サイエンス」「クラフト」の三つの側面があり、これらをバランスよく共存させないと、クオリティの高い経営は出来ません。しかし、言われてみれば自明のように思えるこの指摘が、多くの企業では実践できず、「クラフト」と「サイエンス」に偏っているのはどうしてなのでしょうか?

一言で言えば「アート」と「サイエンス」や「クラフト」が主張を戦わせると、必ず「サイエンス」と「クラフト」が勝つからです。なぜなら「サイエンス」と「クラフト」が非常に分かりやすいアカウンタビリティを持つ一方で、「アート」はアカウンタビリティを持てないからです。

言い方を変えれば、(中略)サイエンス側がアート側を批判することは非常に容易であるのに対して、アート側がサイエンス側を批判するのは非常に難しい、ということです。

「サイエンス=言語化出来ること」「アート=言語化出来ないこと」とそのまま置き換えることが出来ます。

つまり、アカウンタビリティを果たせるものの方が常に強いのです。「言語化出来ない理由をサイエンス的に説明出来ない」。これが圧倒的なウィークポイント。

つまり、我々は「言語化優位の仕組みに自動的に吸い寄せられているという事を自覚し、絶対に埋もれていく"言語化出来ないこと"に目を向ける意識を持たなくてはいけない」と結論付けられるのではないでしょうか。

「一切期待することなく」相手と向き合う。これだけ

相手の「星座」「劇」に目を向ける

「"言語化出来ないこと"が負けやすい・埋もれやすいものであり、そこに意識を向けなければならない」ことが分かった上で、では具体的にどうしたら良いのか。本書はそこまで指南してくれています。

近内氏は、ヒトの行動を理解するには、そのヒトの「劇全体」を知ろうとする必要がある、と言います。本書の中では、抜毛症の少女のケースが出てきます。

本ケースでいえば「妹の世話や家事に忙しい母を思う気持ち、優等生でなければという想い、でも甘えたいという本心、それらの葛藤が"親が喜ばない行動"である抜毛に繋がった」という劇全体を理解せずに、抜毛という事実を理解することは出来ない、と説きます。

どうしても我々は、その人一人を、その人の行為1つを「たった一つの星」だと思い込んでしまう。

ですが、必ずその星は「星座」の一部であり、その星座=劇を理解しなくては、星のことは決して理解出来ないのです。

「期待しない」の意味

近内氏はその「劇」「星座」を理解するには、「いかなる劇も期待することなく、その人と向き合う」ことが必要と考えます。

なにか「期待しない」というと、とてもネガティブに聞こえます。少し相手をバカにした、侮蔑した感じもします。

ですがそうではなく、「その人の属性、肩書き、表情、雰囲気といった情報から、この人が位置付けられている劇はこういったものではないか?」という想定を限りなく外すこと、これを「期待しない」と表現しています。

言い換えると、一切のバイアスなく、ただその人の前に立つ。ただ聞く。それだけ。でも、それが物凄く難しい。つい予想するし、解釈するし、解像度を上げるために質問したくなる。

リーダー・マネージャー・上司と呼ばれる人たちは、きっと言語化は一定程度出来るでしょう。ですが、それが邪魔をする。

「一切何も考えずに立つ。聞く」

やってみるとめちゃくちゃ難しいですが、是非やってみてください。新しい関係が築けるかもしれません。

おわりに

僕を知っている人がこれを読むと、どう思うのだろうか。それが気になっています。

結構「今更そんなことに気付いたのか!!」と思われている気もします。

それくらい、私にとって「言語化」は全ての大前提であり、あって当たり前のもの。言語化が終わってから全てがスタートする、そんな考えでした。

でも、それではダメな部分があることがよーーーーく分かったので、連休明けから人間変わっていきたいと思います。

では、またお会いしましょう。

細田 薫


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