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ポップコーンの香り

ポップコーンの香りは甘いのに、切ない。
あの小さな映画館は、いつもキャラメルシロップとトウモロコシの香ばしい匂いがしていた。
だからなんだろう。ポップコーンを食べると彼のことを思い出してしまうのは……。

私の住んでいた街には、映画館は一つしかなかった。もちろん、スクリーンだって一つだけで、席数は120くらいだったと思う。
ちなみに、流行りの超大作は県庁所在地の街でしか観られない。ここでは渋い白黒映画や名作洋画、社会派映画が、いつも二本立てで上映されていた。

そんなくすんだ空間に、制服を着た人間が私以外にもいることに気付いたのは、季節が一度変わった頃だった。黒い学生服を着た男の子が、前方の左寄りの席に座っている。先週も、先々週も同じ場所にいた。

――話しかけてみようかな。

上映中、集中力が切れたときに何度も考えた。この映画が終わったら、ロビーで感想を聞いてみたい。君の塩味のポップコーンと私のキャラメル味を交換してみたい。ねえ、好きな監督は誰? あの作品はどう思う? 今度、一緒に東京の小さな映画館に行ってみない?
何度もシミュレーションを繰り返した。だけど、ただ繰り返すだけ。
そしてまた、エンドロールの時間だ。
彼の声なんて聞いたこともないのに、頭の中では何度もおしゃべりをしているなんておかしな話だと思った。

ある日、最寄り駅の前で私服姿の彼を見かけた。
隣の男友達に向けられたくしゃくしゃの笑顔は、映画館では決して見られない年相応の表情だった。声は想像していたよりも、少しだけ高かった。
たったそれだけのことだったけど、私は彼のことが知れて嬉しかった。雨上がりの空が、いつもよりも澄んで見えた。

彼とは言葉を交わすことがないまま、あの街を離れた。その後は、それなりに恋愛だってしたし、他人との距離の詰め方だって上手くなった。
だけど、臆病で不器用だった昔の自分を思い出すのは悪くないと思う。まるで出来の悪い白黒映画を観ているみたいだ。
私は、ポップコーンを掴んで口に放り込む。噛み締めると、ほろ苦さが広がった。

シナリオライターの花見田ひかるです。主に自作小説を綴ります。サポートしていただけると嬉しいです!