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分かり合えない事の嬉しさ/もちはこび短歌(22)

色混じる事なく掛かる虹見れば分かり合えない事の嬉しさ
近江瞬『飛び散れ、水たち』(左右社)

 近江瞬さんの第一歌集『飛び散れ、水たち』は、眩しいくらいの青春歌に満ちている。青春期特有の光が甘やかな叙情で綴られている一方で、その照り返しで作られた影や時には自己愛までもが包み隠さず表現されている。まさに青春の醍醐味を余すところなく描いた一冊だ。
 歌集には何度も「虹」が登場する。おそらく近江さんにとって、虹は自分の人生を測るのに特別な指針なのではないかと感じるほどに。それらの虹の歌の中でも、わたしはこの歌がとても好きだ。下の句の「分かり合えない事の嬉しさ」は一読して記憶してしまった。分かり合うためにもがくことはしない。分かり合うことは場合によっては正しいことではない。そんな考えが浮かび上がる。わたしはこういう哲学にグッとくるのだ。
 「分かり合えない事」を受け容れている作中主体が短歌に登場すると、「わかり合えないことへの諦念である」と評されることも多いのではないか。そんな諦念読みを断固拒否するために、近江さんは最後の四音を「嬉しさ」というひどく率直な言葉に費やしたのではないかと、わたしは感じた。「分かり合えない事」、すなわち孤独であることは喜ぶべきことであるのだと。
 人間は生まれた時から、無数の細胞が寄り集まったひと塊りだ。それがひとりという単位。そして、心はその塊を超えて、ほかの塊と混じり合うことは決してない。だからこそ、混じり合いたくもなるが、結局は混じり合わないことが、大げさにいえば個人の尊厳につながる。そういう実感が「嬉しさ」の四音には込められている気がする。
 その「嬉しさ」を比喩的に補強しているのが、「色混じる事なく掛かる虹見れば」という上の句である。「虹」というのは、ぼんやりと色が混じり合っている部分もあるという見方もできるだろう。でも、近江さんは「色」をパッキリと分けることを選んだ。「事」をはじめとして漢字表記できるところはなるべく漢字にしていたり(歌集のほかの多くの歌では「こと」とひらがな表記されている)、二ヶ所で助詞を抜かして漢字を続けたり、ひらがなに開くことを極力拒んだ硬い表記は、パッキリと分けることへの決意の表れのようにも見える。
 同じ歌集の異なる連作にこのような歌もある。

僕にしか分からぬ僕と君にしか分からぬ君が桜眺める
分かり合えないと知りつつ隙間なく重なる揃いで買った茶碗は
三月十二日の午後二時四十六分に合わせて一人目を閉じている

 ひとりであることがこの世のデフォルトであるといった態度は貫かれている。そこには諦念はない。むしろ喜びがあるようにすら思える。生きるうえで、これ以上にかろやかで、また安心できることはほかにあるだろうか。「分かり合えない事の嬉しさ」。お守りのように折に触れて思い出す。

文・写真●小野田光
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「もちはこび短歌」では、わたしの記憶の中で、日々もちはこんでいる短歌をご紹介しています。更新は不定期ですが、これからもお読みいただけますとうれしいです。よろしくお願いいたします。

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