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短編小説 | 歌声 #1

 霧雨の向こうから水銀のひと塊が音もなくすり抜けてくる。

 山間の車道をなめらかになぞりながら、それはやがて新緑の下へと滑り込んだ。そのさい梢が傘となって霧雨が途切れ、水銀は正体をあらわした。旧型のマーチボレロである。

 ボレロは濡れて光るアスファルトの上を油のように滑り曲がると、再び新緑と霧雨とが混じる水彩の中へ静かに溶け込んでいった。

 運転席には蝋のような老人の顔があった。

 古いバケットハットに額を隠し、つばの陰からは厚い瞼の目が覗く。それは光なく、焦燥の瞳だった。老人は隠れがちな目をさらに細め、雨に打ち消えいく道幅を探り探りなおアクセルを踏み続けた。

 昼前のラジオではここ数日柔らかい雨が続くと聞いた。が、そのラジオも悪天のためかしばらく無音が続いている。辺りは緑と雨ばかりで長く対向車ともすれ違っていない。現在地が分からずただ走るというのは、内海老人にとっていくらか不安を覚えるものだった。通り慣れた道ではある。だがこのあたりだろうという目印を霧雨に隠される今、どこかで道を間違えはしていないか、何か勘違いをしていないか、そんな疑問が一度生まれ、すると消せない。まるで永遠に走り続けるようにも思われた。気が付けば遠い里にいやしないだろうか。そんな不安も、せめて耳に届く声や音があればまぎれるはずだった。

 認知の衰えは日頃から感じている。しかしそれは結果が分かってからのことで、今はただ霧雨である。霧雨さえ抜ければ答えが分かるだろう。そうゆっくりと巡らす猶予もなく、自然と車は速度を増した。くわえてぼうっとした不安のみの長い時間に、どうしてか、次第にフロントガラスの視界と操作する手足の骨肉が自分のものでないように思えてくる。アクセルを踏むのが他人ごとのように感じる。自分はただの霧の中にいて、物事のほうだけが勝手に進んでいくような気になる。そう、自意識は霧雨のほうに絡めとられ、車だけが先へ先へ進んで行くようだ。

 やがて霧の先に黒い穴が現れた。トンネルの入り口だと思った。内海はほっと、鼻息を漏らした。いつも通る道にも古いトンネルがある。

 視界は穴の口へ呑まれた。瞬間黒のめまいが起こったが、すぐ一面のオレンジ色となった。雨は途切れ、フロントガラスに残る無数の水滴に暖色が灯って煌めいた。目が醒めるようだった。

 そこへ、沈黙していたスピーカーが微弱な音を鳴らした。ノイズのようであったがその奥に、ぽつりぽつりと氷のように透き通った音が聞こえる。次第にその音は近づき、やがてそれはハミングをするような、切れ切れの女の歌声だと分かった。

 内海の瞳にも、トンネルのナトリウム照明の光が乗った。その歌声にはどこか懐かしさがある。また、忘れていた恋のような切なさもある。

 内海は震える指先を伸ばし音量のつまみに触れた。しかしノイズの音が強くなるばかりで声の方は明らかにならない。ちゅっと乾いた口の端から舌打ちを鳴らしながら、前面とオーディオの操作盤を交互に見比べた。周波数の微かな調整が必要だ。しかしハンドルから手を離すわけにも車を停めるわけにもいかない。そこへ、目先に小さな光が見えた。すぐに光は大きくなって、光の輪となった。トンネルが終わるぞ。内海は頬を緩めた。トンネルを抜ければ山の外に出る。音がしっかりと入るかもしれない。また、忌々しい霧雨も止んでいるかもしれない。

 やがて出口に差し掛かり、フロントガラスは一挙に白く輝いた。同時に内海の睨んだ通り電波が入る場所に来たのだろう、瞬間、スピーカーの歌声は伸びやかに響いた。

 内海は目尻に皺を作った。そして、次に強く頭を揺らすと、ひとつ体は激しく仰け反り、両手を大きく広げた。強い音が車内に響き、フロントガラスの景色は回転した。内海の体はソーセージのように左右に揺れるとすぐに弾力のまま跳ねまわった。天地は返る。ガラスは割れ降る。ラジオの歌声は、それらの衝撃のためにほとんど内海の耳に届くことはなかった。

 

 車道を外れた斜面の下、マーチボレロが腹を見せて時を過ごしている。銀の車体を抱きしめるように、鬱蒼とした雑木の新緑が囲った。黒い腹には霧雨がおぶさる。遠くからはサイレンの音が聞こえ始めた。が、まだ霧雨の柔らかい音の方が強いぐらいだった。スピーカーは沈黙した。カーラジオはとうに途絶えた。(続)


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