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短編小説 | 歌声 #4

 雨脚が強くなり、霧雨は本降りとなった。

 内海は帰るなりソファに座るとブランケットを肩まで被り冷えた体を包んだ。夏だというのにずいぶん寒い思いをしている。衰えた体はなかなか温まらなかった。

 見回せど、家の中は内海独りである。変わったことといえば新しくテーブルに置かれた食事ぐらいのものだった。宅食の配達員には合鍵を渡してある。内海の帰りが遅い日はそうやって置いて行ってくれる。が、冷えた食事には手を付けられそうになかった。

 今日出会った人々の影が、内海の頭のなかでぐるぐると回って舞っていた。いまでも振り向けば、ソファの背や客間の襖の間、カーテンの陰や机の下に、彼らが微笑みひそんでいそうだった。二度自分と出会えば死んでしまう。レファレンスの女はそう言った。良く笑う女であった。いつまでも彼女たちと笑い合っていたかった。

 内海はブランケットに身を包みながら、じっと暗い部屋を見つめた。沈黙する家具にはそれぞれの傷と汚れがある。そこに、幼い自分の娘たちや若い妻の姿が重なって見えた。そして、死の間際の景色に、若者の憐憫を得たいという自分の望みが、ついぞ下卑たものであると察した。

 内海は思い立つと、ブランケットを抱え、書斎へと向かった。

 ガラス棚を開け放ちアルバムを漁った。手当たり次第に本棚からアルバムを抜き出すも、娘たちや妻の写真ばかりで、そこに自分の姿は見当たらない。しかし内海の心は次第に暖められていった。写真に映るのは幼い娘たちである。一枚一枚は瞬間であるが、それを撮影した内海には、前後の時間が断片的な映像としてよみがえっていた。場所はどこか、何をしているのか、それらは明瞭ではない。しかしそれは重要ではなかった。ただ生きてきたこと、命としてあったこと、そこに生きて動いていたこと、それだけの事実に、内海の心は打ちひしがれた。それがたまらなく愛おしく思えた。そしてその営みが、今も地球上で無数に無限に行われていることが、ひどく満足に思えた。

 内海はアルバムを開くのを止め、一人掛けのソファにゆっくりと腰かけた。もう見なくとも、自分の記憶の中で十分に麗しい時を楽しめる。そしてその情景にいつしか憐憫の瞳を向けられると気がついた。内海は誰へとなく静かに何度も頷いた。

 と、どこからか抜け落ちたのか、床に一枚の写真が落ちている。表を返すと、それはどの写真よりも古く色あせたものだった。

 それはどこか山小屋のように小さい部屋だった。中心には赤子を抱いた女がひとり写っている。目を閉じ、口を微かに開けて、胸の赤子に何かささやいているようだった。

 内海はその写真を手元に、ソファに身を沈めるとゆっくりと目を閉じた。思い返すのは、記憶だろうか、それともまったく無関係の、映画の一場面のような気もする。

 情景は湖畔近くの山小屋であった。冬の時期には積雪で周囲の道が途絶えてしまう。山小屋は雪原に孤立していた。

 リビングはごく小さく、身を置くのはソファというにはずいぶん質素なもので、コの字に木を組み、上に布をかぶせただけのものである。座れば当然尻が痛い。

 正面の座の高いスツールに痩せた女が尻半分に座り、赤子を抱きながら歌を歌い始めた。あの歌声だ。

 部屋の中は冷たい。貧しさに、暖房器具に使う燃料は限られている。小さな薪ストーブが、部屋の隅で微かな光を灯していた。その働きはわずかだろう。しかし着込んだ羊毛のセーターやひざ掛けがあれば耐えられないことはない。

 歌声の主との生活は慎ましいものだった。コの字に囲んだ中央に小さなテーブルがある。自前の簡素なものであるが、気にする者はいない。テーブルの上には粗末な食事があった。古く固い大きなパンをちぎったものと、ありものをただ煮込み続けた薄い汁である。

 洗濯などは滅多にしない。掃除は掃き掃除ぐらいである。それでも汚れというものは、この生活では厭忌するものではなかった。それは生きれば自然であるし、汚れすらも暖だった。

 それはただ老い死に行く生活だった。

 しかしこの生活には歌声があった。歌声は小さな家に静かに響き、そうありながら湖畔まで広く届く。冬の湖に霧雨は降らない。冷えてすべては氷になった。

 内海は目を開けた。誰もいない書斎と静かな家具と、今しがたの幻想に通じるのは、外光だけの灰色だった。

 すると、どこか遠くからあの歌声が内海の耳に聞こえ始めた。幻想ではない。確実に、本当の歌声だった。

 内海は立ち上がり、ブランケットも放り出して玄関へ駆け出した。

 日も暮れ、玄関は冬のように暗く冷えていた。しかし光ない扉の向こうに、あの歌声が聞こえる。すぐそばまで近寄って来てくれている。

 内海は恍惚な誘いに踊らされるよう、自ら玄関を開け放った。

「お母さん!」

 歌声が、ようやく迎えにやって来た。(了)

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