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短編小説 | 歌声 #2

 内海老人は喫茶店で過ごすことを日課としていた。とはいえ、そこに仕事や用事があるわけではない。持て余した余生を雑誌や新聞の記事の講読に使うのである。が、ゴシップや世事に余生を彩る力はない。それはむしろ口実だった。


 通う喫茶店は郊外にあるチェーン店の新店である。旧市街に自宅を構える内海は毎日のように峠道を越え、その開発中の土地に向かった。開発地には真新しい住宅が並び、それでもさらに山は削られ平らな茶色い景色がまだあちこちに広がっている。新生の地に美しい家を建てるのは若い夫婦か、もしくは壮年の核家族たちだった。おのずと、その土地の店には若いアルバイトが働いた。妻か、娘か、ともかく若い女が多い。

 内海老人の目的は彼女らのもてなしだった。生涯仕事人として誇りある徳操を通した彼にとって、この歳でいまさら色欲などに揺るぎはしないが、だからなおさら、彼の力を失った目に彼女たちはみな天使のように眩しく映った。加えて独り身の内海にとってその天使たちのもてなしは、自分がまだ人でありそこにいることを認知できる数少ない機会であった。

 古い家に独りでいれば、流れるのは実際の時間よりも過去の影が多かった。その影である妻はとうに先立ち、娘たちは皆家庭を持って外に出た。影すら去ってふと我に帰れば、ただあるのは衰え切った認知と強烈な自我、それ以外には食卓に一人分が並ぶ寂寥の飯ぐらいである。最後の晩餐だの終末だのが現実を帯びる年齢になって、毎日配達される味の濃い総菜を眺めてはこれが最後の景色かなどと自嘲しようにも笑えない。内海はいつしか、死ぬときは家ではなく外でと考えるようになった。するとせめて体が動くうちはできるだけ出ていようと思う。臨終に見る景色、それが独りの食卓ではなくて誰かの顔があるところならば、そしてできれば若い者のいる場所であるならば、目に映るのは天使だろう。内海は地に倒れる際の視界を思った。見上げる景色には自分を案じて覗き込む若い憐憫の瞳がある。その、命の最期に得られる憐憫こそが、人生の幸福ではないだろうか。迷惑だろうがかまわない。内海はまったく知らない若い女に、自分の臨終に立ち会って欲しかった。独りは嫌だった。



 床が抜けた感覚にひとつ体が跳ねて目を開けた。反射的に払った手がコーヒーカップに当たり高い音が響く。内海は咄嗟に頭を上げ周囲を見渡した。

 そこは朝のように明るい店内であった。梁がむき出しの高い天井にはシーリングファンが下がり、木材を基調にしたコテージのような喫茶店だった。

 まばらに席を埋める客は一人も内海の方を見ていなかった。内海は誰ともなく苦笑しながら内心情けなかった。喫茶店でうたた寝するなど本当に老人らしい。そのうえ落ちる夢など子供のようだ。内海は落ちた成り行きをぼうっと思い出そうとした。

 自分はどこかで死んだように思う。が、醒めてしまっては、意識は成り行きからどんどん離れていくようだった。

 しかしそれでも、席の窓へ顔を上げると気分はよいものだった。外は霧雨が降り、しかし雲は薄いのだろう、整えられた郊外の外景は明るく湿っていた。植えられたばかりの細い街路樹が、広く往来の少ない平らな車道と歩道の間に並ぶ。その足元には真新しい縁石ブロックが濡れて白く光っている。無機質ではあるがそういった整然とした街並みは、ごみごみとした俗世と画す清々しさがあった。そういうところに身を置くと気分がいい。目覚めでも不思議とさわやかな心地となって、若い時代がよみがえる気さえする。あの、誰とでも愛し合えそうな青く軽やかな季節。その断片がとりとめとなく脳裏に過って入り乱れ、胸は麗しく躍動した。

 そこへ、女の店員がお冷の交換を尋ねに来た。制服の白いポロシャツは清潔そうで、黒のスラックスは肌を厳格に隠している。くわえてチャコールのエプロンが内海に家庭を思わせた。彼は物々しく自分のコーヒーカップを覗き込むと、水ではなくコーヒーのお代わりを申し出た。女は微笑みを浮かべると、お待ちくださいと去っていく。その頬がガラス細工のように煌びやかに光って見えたのを、内海はその背が去るまで記憶し続けた。そしてその姿がキッチンに消えるまで、じっと見届けた。

 内海はコーヒーが届くまでの間再び窓を眺めた。霧雨の、遠いところではまだ開発が進んでいる。切り開かれた広大な土地に大きなショッピングモールができるのだろう。重機のオレンジや薄緑の色が小さく、明るい雲の下に置かれたままなのが見える。今日は休みなのか。動く様子はなかった。

「お待たせしました」

やがてコーヒーが運ばれた。しかし持ってきたのは男の店員であった。ありがとう、ありがとうと手を挙げるも、内海の頬は下がったままだった。男が立ち去るとすぐに周囲を探した。すると女の店員たちはひとりふたりとそれぞれ通路に立ちながら、別々に席にいる男の客たちと親し気に話をしている。内海は顎を引いて顔を逸らすそぶりを見せたが、しかし目は彼女たちから離せなかった。女たちは男客の話すことに逐一軽快に返すのだろう。笑い声や興奮気味な言葉が男女ともに店内へ上がる。そこに肩や腕へ触れたりもするものだから、内海は顔を歪め太ももを揺らした。

 そんな通路に立つ女の後ろを、先ほどの男の店員が再び通りやってきた。内海の観察によれば、いつもこの男はきまって店内にいる。男性はこの店に彼一人だけで、女たちよりも年上、三十手前ぐらいにみえる。おそらく彼が店長を任されているのだろう。女たちのような三角巾ではなく、小豆色のギャリソンキャップを被るところからもそれがうかがえた。

 男は手に箒をもって、隣の席の下を掃き始めた。男の尻がこちらを向いて左右に動いている。

「ちょっと」

やり過ごそうと思ったが、すぐに我慢できなくなった。内海は眉を強くしかめ、尻を睨んだ。棘のある声になった。

「はい?」

男は尻を向けたまま、尻の向こうから顔を出した。

「あのねえ、」

勢いのままで言葉がつかえた。それでも言わねばと何とかひねり出した。

「お客がまだいる。掃除とは何事ですか」

店長はああと言ってこちらに真向き、軽く頭を下げた。その様子が思いのほか抜けているように見えたので、内海はついでにとばかりに皮肉めいた。

「あとね、この店はお客とおしゃべりするサービスもあるんですかね」

「え?」

男はぽかんとした。この男には遠回し過ぎたかもしれない。しかし言ってしまって撤回もできない。補足はかえって無様だった。

「だから。ほら、あの子と、あの子。客が他にいるのにあれじゃあ失礼でしょう」

内海は心持頬を赤くしながら声を落とし、女たちの背へ目配せした。男はその方を見る。

「ああ」

「ああって。おたく店長でしょう。学校じゃないんだから、しっかり働かないと困るでしょう」

「あれは、あれでいいんですよ。仕事なんです」

「え?」

予期しない答えだった。

「お客様とのお喋りも仕事です。お代金もいただきますよ」

「本当に?」

知らなかった。時代だろうか。世間知らずは自分のほうかと内海は心を乱した。何か挽回をと文句を探すも出てこない。そこへ、店長が微笑みながらそっと耳打ちをした。

「彼女たちは機械の天使ですから」

「ええ?」

店長はそう告げると箒を抱えて去っていった。

 置き去りにされた内海は、かわらず男と戯れる女たちを眺めた。俺は馬鹿にされたのだろうか。いい加減にあしらわれたのだろうか。そう思えば内海はかえって怒れなかった。ただどこからともなく来る寂しさに、もう女たちのことは考えないよう、再び窓を見つめるしかなかった。

 遠く、救急車のサイレンが聞こえた。

 サイレンはまっすぐこちらに近付いてくるようだった。すると音はほどなく近くでとどまった。急に、店内がざわつき始めた。客はそれぞれ席から立ち上がり、神妙そうな顔で女たちと何か言葉を交わしている。首を動かして窓を覗き、外の様子を窺うようだった。やがてどんな話になったか、客たちは女に手を引かれるようにしてぞろぞろと出口へ向かって行った。

 店には誰もいなくなった。ボサノヴァ調の音楽だけが店内に残って続いている。むろん、取り残された内海は不安に駆られた。身を乗り出し、同じように窓から外を眺めた。しかし駐車場にも前の道にも、救急車らしきものは見えない。それどころかいま店を出た人々すら姿がなかった。自分も出なければならないだろうか。残ってよいものか、内海は指示を求め店長を探した。しかし彼もどこにもいない。

 視界の端で何か黒いものが動いた。自然と、その方を見る。

 音もなく現れたのは、袈裟を着た中折れ帽の男であった。

 僧侶だろうか。内海は横目で袈裟男の姿を追った。男は迷わず通路を進むと、がらんとした店内でわざわざ隣の席へ座った。内海はざっとその姿をなぞった。雨だというのに足袋に草履を履いている。傘も持たない。檀家の家に参るなら難儀だろう。そんなことを感じるうちにも、袈裟男は中折れ帽を脱いで机に置き、坊主頭の横顔をその場に晒した。存外、若い男に見える。四十か、もう少し若いかもしれない。

 内海の視線に気が付いたか、ふいに、男がこちらを向いた。内海はひやりとした。あっと声が漏れそうになり喉を押さえた。どこかで見た顔だという瞬間の緊張から、すぐにそれが自分の顔であると気が付いた。それも、自分の壮年の頃の顔である。

 内海はすぐに顔を逸らした。他人の空似か、偶然の一致としか言いようはない。が、男の顔は自分の危機を知らせる器官へ直接届くようだった。驚きはすぐに不気味さへ置き換わった。自分はここにいるのだから、自分の顔が目の前にあるのは、そして勝手に動くのはいびつである。自分の顔の皮を被った精巧な人形のようでもあるし、自分が自分でないような気さえしてくる。ともかく不自然であり、くわえて彼の若さが脅威であった。なぜか、彼に取っ組まれそうな恐怖を感じた。自分を奪われるように感じたのである。彼が隣に座ったのは何か意図するところがあるのだろう。内海は身震いをした。彼は自分であるが他人だ。自分は坊主でも僧侶でもない。

 そこへ、それまで続いていた音楽がふいに途絶えた。無音となる。内海はたまらずコーヒーを飲み干した。袈裟男は店員が来なくても依然として隣に居続け、動揺する様子もない。膝に手を置き、真顔のまままっすぐ宙を見据えている。

 静寂へにじり寄るように、遠くから音楽が聞こえ始めた。ほどなく、あの、車で聞いた歌声となった。

 歌声は変わらず、忘れていた恋を思わせる、切なくも麗しいものだった。が、今の内海にはゆっくりと聞き入る余裕はない。せめて店員がひとりでも袈裟男の相手をしてくれれば、彼が紛れもないいち客だと安心できる。

 内海は誘惑にかられ、再び隣を盗み見た。袈裟男はずっとこちらをまっすぐ見据えており、さらに自分と目が合うと分かると、据えた目のまま、口をゆっくりと開こうとしたのである。

 何かを言われる前から、それは不吉な言葉に違いなかった。内海は男の意思を遮るように席を立ち、急ぎ足で出口へ向かった。勘定は次にまとめて払うと誰に弁解するわけでもなく、ひとりごとのうちにも振り向くと、袈裟男も立ち上がりまだこちらを見据えている。帽子を手にしているところから、後を追ってくるに違いなかった。

 内海は足を速め車へ急いだ。つま先をとられながらも転ぶように乗り込み、エンジンをかける。袈裟男は店の外まで出てきている。アクセルを踏み込み、道に出た。男は入口の庇の下で足を止めていた。しかし目は、自分の車を追い続けているようだった。内海は寒気を感じながら霧雨の中を走りだした。(続)


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