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短編小説 | 歌声 #3

 内海の車は図書館の駐車場に停まった。恐れは落ち着いたがまだ不気味さは拭えなかった。霧雨は続いている。どうかすればまた軒や木陰に袈裟の影を見出せそうだった。エンジンを停めた車のガラスには静かな雨音が聞こえた。車の中は孤独であった。内海の心は整然とした場所と、若い者の活動を求めすがろうとしていた。

 図書館はそんな内海の心持によく合っていた。近年リノベーションを果たしたその公共図書館は建物が大きく天井も高い。カフェスペースなども増設され、平日でも若者や親子連れが出入りした。

 内海の日常はこの図書館と郊外の喫茶店に終着した。することは同じである。週刊誌や雑誌に時間を溶かすのであるが、しかしもてなしとコーヒーが無いぶん、内海老人はレファレンスサービスを頼った。記事に疑問点を見つけ出すと窓口に赴き、あれこれと質問を投げかける。国家公務員の異動動向や年間死亡者の内訳、南西の島に関する領有権の歴史や欧州で過去に流行した疫病の発生源など、内海の現在の生活とはほとんど関りが無いような問題にも、疑問を作り出しては尋ねにいく。

 内海は館内に入るとまず雑誌の閲覧棚へ足を向けた。

 そのあたりの棚には、内海と同じような老年の男が多い。閲覧机で新聞を広げる無骨な背の並びはいつも通りの風景でこれまで気にも留めてこなかったが、この時には自分の背も並びに見るようでいたたまれない気持ちになった。袈裟男の印象がまだ残っているためかもしれない。しかし悪天に閑散とする館内にも、この場所だけは示し合わせたように人影が身を寄せている。どこかに自分と同じ顔があるかもしれない。そう考えるとどの背も自分のように見えてくる。

 内海は今見るどの背を蹴落としてでも、天使の憐憫と微笑みを勝ち取りたいと思った。それと同時に、自分を含め誰も憐憫など与えられそうにない場景に思う。

 俺はしかばねのように棚と机と便所とを徘徊するだけだ。この場が時間を潰すだけの場所なら、ここは死が来るまでの待合室だ。

 内海はそんな閃きに立ちすくんだ後、静かに帽子のつばを下げ、雑誌棚へ向かった。

 棚を折れると内海の足ははたと止まった。雑誌棚の通路にはそぐわない、子供が突っ立っているのである。まだ初夏ではあるが、その子供は真っ黒に日焼けしており、どこからか走ってここまできたのか、前髪や首筋に汗の光が見える。昔よりも子供を外で見かけなくなったが、それでもこの子のように健康的に外で遊ぶのもいるのかと内海は内心感心しながら、そっと脇に避け、子供を通そうとした。

 子供もそれと気が付いてか心持横に避けると内海を通そうとした。その際二人は目が合った。子供の瞳は緊迫に満ちていた。すれ違って、内海はハッとした。

「ぼく、お母さんは?」

子供は振り返ると、潤いに満ち、しかし敵意すらこもる目で内海を見上げ、首を左右に振った。

「そうか、迷子か」

内海はすかさず手を子供の頭に伸ばそうとして、しかし子供は後ずさりしてそれを避けた。

「お母さんと一緒にここに来たの」

子供は再び顔を振った。

「じゃあひとりで来たの」

また首を振る。分からないのか。

「よし、おじさんに着いておいで。お母さん探してあげるから」

手を差し出すも、子供は手を後ろに隠した。が、その代わり、じっと内海を見上げ数歩歩み寄るところを見れば、頼ってくれるらしいことは分かった。その様子に自然と使命感が湧いた。俺がこの子を助けてやらねばと思う。もし母親と来ているならば、母親の方もこの子を探しているに違いなかった。ならば窓口に向かうのが早いだろう。

 貸出やレファレンス窓口が並ぶカウンターには、利用者は見当たらず閑散としていた。そこに首を並べる職員の顔が、雨と湿気のせいかみな陶器のように白く浮いた。くわえて室内は冷えるのだろう、誰も質素なシャツに黒い上着を一様に纏い、俯き並ぶ姿は通夜のようにも見える。

 内海はレファレンスの窓口を選んだ。職員へ状況を見せ理解を得るには、座ってゆっくりと話す必要があると思った。何よりそれは自分のためでもあった。

「ちょっと、すみません」

職員は顔を上げた。厚く切れ長の瞼を持つ、若い女の職員だった。彼女も白いシャツに黒いカーディガンを羽織っている。シャツの首元には翡翠のループタイが締められていた。

「迷子がいまして」

女は首を伸ばして、立つままの内海の腰のあたりを覗いた。

「あら」

「親御さんはここに来られてないですか」

「そうですね、まだ……あ、」

と、女の表情が明るくなった。その目を追って振り向けば、本棚の遠い通路で光を背にたたずむ人影があった。その影が、小さく挙げた手を微かに振っている。

「ねえ、あれ、お母さんかな?」

女が内海の腰のあたりへ問いかけた。すると小さな黒い影が足元から飛び出して、何も言わずその方へと走っていく。やがて逆光の影に子供も入って、大きな人影へと縋り付くのが見えた。

「ふふ、よかった」

内海は職員の女を再び顧みた。切れ長の目が柔らかく丸まって、それが遠い先から内海の方へ戻された。

「よかった」

「ええ」

内海は軽く両手を広げた。もう用事はない。しかし内海は離れがたかった。レファレンスの女にもう恋に似た親しみを覚えてしまった。女は戸惑いも見せず微笑のまま自分を見上げている。内海は手引かれるように話し始めた。

「あの」

「はい。他に何か」

「質問がありまして」

「でしたら、おかけに。」

内海は椅子に掛けると、もじもじと手を揉み始めた。

「……あのですね、自分と似た人間と出会ったという記録はあるでしょうか」

「似たひと?」

「似たというか、もう、まるっきり同じ顔といいますか。いや、そんなことが人生には起こるものかと」

「生き写し……?」

「そう、そうです。それも過去の自分と、」

「分身、ですかね。記録をお調べすればよろしいですか」

「ええ、そう、分身。お願いできますか」

お待ちくださいと、女は備えられたパソコンを触り始めた。その間、内海は分身と口にした自分の言葉と、喫茶店の袈裟男、そして先ほどの子供の影とが交互に目の内へ流れ、すっと背に氷水が流れる感触を覚えた。どうか思えば、先ほどの子供も見たことのある気がする。思えば思うほど、それは自分の幼少に写った写真の姿によく似ている気がしてくる。内海の乾いた額に汗が浮き始めた。

 ふふ、と女の含み笑いが聞こえた。目を遣ると、調べ終えたようで顔を上げている。

「ありましたか」

女は再び画面に目を向けた。

「歴史上の人物でしたら、ピタゴラス、リンカーン、芥川龍之介などが記録にありますね。どれも自分と瓜二つの人物を見かけたようです」

「本当ですか」

「それらはドッペルゲンガーやダブル、離魂、生霊などと呼ばれるようですね」

「その、分身に出会った彼らはどうなりましたか。いや、何か不吉な感じがして。」

女は不敵な笑みを浮かべた。おかしなことを聞くのは内海のほうも自覚していた。

「皆さんお亡くなりになりましたね」

女は冗談だと言うように笑った。当然だ、人は皆死ぬ。しかしそれがふいに嫣然として美しかった。内海の額はどうしてか、風が吹いたように晴れ晴れとし始めた。

「はは、死んだ? もれなくですか」

「ですね」

「あの、どうにかして、分身から逃れる方法などはありますか」

滑稽は承知だった。また、女は蔵書などにはあたらず手抜きをしていると内海は感づいていた。それでも内海は、そのやり取りが遊ぶようにおかしく、恥も忘れて会話を繋いだ。

「あのですね」

女は微笑んだまま、画面から目を離すと手を机の上に結んだ。上品であった。

「ここは占いや診察、人生相談にはお答えできません。利用者さんが知りたいことを書籍から調べてお伝えするだけです。ですから情報は選ばずありのままに、そして個人的な意見は含まれませんし申し上げるのも出来かねますが」

内海は子供のようにうなずいた。

「単刀直入に申し上げるとドッペルゲンガ―は死の前兆とされています。しかしご心配なく、二度出会えば、ということですから」

「さっきが、二度目だった。」

内海の声は上ずった。ああ、ですね。と、女は気の無い返事だった。そして口の端を少し上げると、再びゆっくりと続けた。

「ならばドッペルゲンガ―とは予兆というより死の遣いでしょうか。死神とは案外自分の姿をしているのかもしれませんね」

ふふ、と女はまたしても笑った。するとやにわに、音が波のように辺りを包んだ。抑揚のある湯のような音である。館内放送だろうか、が、耳を傾ければすぐそれが、あの歌声だと分かった。

 内海の手は震え出した。レファレンスの女に縋り付かないばかりに体を起こした。

「二度です。それも若い頃と子供の頃と、二人の私と私は出会いました。私はもう死んでしまうのでしょうか」

女は頷き、きゅっと口角を挙げた。

「落ち着いてください。そのためにここがあるのです。考えようによったら前兆があってよかったじゃないですか。準備ができる。でしょう。予期なく死が訪れる方々もいらっしゃいますよ。あ、そうだ。地獄めぐりの本などお探ししましょうか」

「いや、結構です」

内海は含み笑いをこぼした。

「では、もう?」

女の声にも笑みがこもる。

「ええ、帰ります。」

「それがよろしいかと思います」

「じゃあ。お嬢さんもお元気で」

「あはは」

内海は血の気を失いながらも、しかし微笑みは絶えなかった。曖昧になる意識のうちに駐車場を探した。歌声は館外まで響くようだった。(続)


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